コリント信徒への手紙1の何となくのパウロの構え について
あなたがたはどんな賜物にも欠けることがなく、熱心にキリストが再び来られるのを待望している。主もまた、あなたがたを最後まで堅く支えてくださり、私たちの主イエス・キリストが再び来られる終わりの日に、責められるところのない者としてくださる。
(やはり、すぐ、のイメージ)
神は、人が宣べ伝えるメッセージを信じるという、人間的に考えれば実に愚かと思われる方法によって、人を救おうとしておられるのである。
(この時福音書は成立していたのか?成立していないならば、〈伝えなければ〉のちからが強く働くことになるだろう)
あなたがたの所では、イエス・キリストとその十字架以外は何の知識も見せびらかすまいと決心したからである。(パウロにとっての十字架(を背負うこと)の重要性。おそらくパウロにとっては、完全な欠状態の生活で、それ(十字架)を破棄することは、約束を破棄することと同等と、伝道生活の破滅)
それはキリストの裁きの日である。その日には、建築家がどのような働きをしたかが明らかになる。そして、キリストという土台の上に建てた働きが最後まで残るなら、それにふさわしい報いを受けることになる。もし最後に何も残らなかったら、その働きはむなしいものとなる。しかし、その人自身は、主を信じていたので救われる。(何か成し遂げた、人格?や積み上げたもので、プラスの報酬か、人格、霊的付与的なことの想定)
私についての正しい評価は、主が最後の日になさるのである。だからあなたがたは、主が再び来られる時までは、決して先走った裁きをしてはならない。主はその時、すべてを明るみに出されるし、心の中までも見通される。その時、すべての人は、神から自分の受けるべき賞罰を受けるのである。
(復活/神の国 +何かしらの評価の想定)(パウロの、期待的行為)
ある人が自分の義母と不義な関係を持っているとのことである。それなのに、あなたがたは自分たちの処置が寛大だと言って誇っているそうだ。むしろ、このような恥ずべき事を行っている者を除名しなければならない
古いイースト菌を取り除きなさい。
古いイースト菌である悪意や邪悪を取り除き、イースト菌の入っていない純粋で真実なパンとなって、教会を前進させていこうではないか。
(清き集団への思い。排除、われわれは、神の〜なのだ的な、)
クリスチャンの中で不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人を中傷する者、酒に酔う者、略奪する者がいたら、そのような者と交際してはいけないし、一緒に食事をしてもいけないということである。
(すぐにでも来るのだから、もう、清くしておこう、保っておこうという、邪への嫌い)
クリスチャンがこの世を裁き、やがてこの世界を支配するようになることを知らないのか。
私たちクリスチャンは、やがて天の御使いをも裁くようになることを知らないのか。
(これはものすごい(慢心的な意で)。どっからこんなものが来たのか?誰が言った?)
ところがあなたがたは、クリスチャンに対して不正を行い、だまし取っているのである。正しくない者が神の国を継げないことは、知っているはずではないか。思い違いをしてはいけない。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫する者、同性愛にふける者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、人を中傷する者、略奪する者はだれも、神の国を継ぐことはできない。
(ほんの若干の矛盾)
聖餐にあずかる時、キリストの祝福にあずかるのだということをよく考えない人は、神の裁きを受けることになる。→誰が、考えたのか?
あなたがたの中に弱い者や病人がたくさんいたり、死んだ者が大勢いるのはそのためである。自分を反省していたら、裁かれることはなかった。→ヤハウェ的
(預言や知識)この世の終わりにすべてが完成する時、それ(愛)に取って代わられてしまう。→パウロなりのイメージ(前半)
いつまでも残るものは信仰と希望と愛の三つである。
→なぜ希望まで残るのか?そこでは、何かをしながらキリストを待つという、また、(繰り返しの)はたらきがイメージされている。
愛を熱心に求めているなら、次に、御霊の神が与えてくださる霊的賜物、特に神の御心について語る預言ができるように求めなさい。
預言の場合は人々に分かる言葉で語るので、教会のためになる。・・・預言する者は教会のためになる。
(その預言は、来たるべきものと、それがやがてすぐにでも来るという、だからその間は〜せよ、という励ましに限られる?だろう。だから、なるべく清く生きようと)
やっぱりカナメになっていたのは、イエス再臨・神の国がすぐにでも来るというその信じ、だからその間に、捨てて、捨てて、耐えよ、という。
まず最初にキリスト、そして次に、キリストが再臨される時にクリスチャンたちが復活する。それから終わりが来て、キリストはあらゆる敵を滅ぼし、(これも、死からキリストの再臨まではわずかの間と見積もっている)
キリストが再び来られ、世の終わりのラッパが鳴ると、〈たちまち先に死んだクリスチャンたちが復活し〉、生き残っているクリスチャンたちは、栄光の体に変えられる。
(生存中のものは別にして、一旦はわれわれ全員が無に帰する、という展望)((無と時間性の途絶え、記憶))(or霊的存続+時が来て復活体かもしれんが、無に帰する方の匂いが強い気がする)
(パウロ分析しても疲れる(だけだ)わw)
(((それに比べて、キリストの真性さよ。(〈僕にとっては〉)「感性的」真性さとか付ければ許されるのか?という、句の質の低減)))