メモ ニーラカンタン「すべての病に対するマスターキー」
さあ、それでは祈祷文(マハルシの)の最初の章句を見てみよう。最初の言葉は反語で書かれており、 「存在」以外に存在の気づきはないと主張する。既に述べた通り、経験の対象物の存在を真実であると断定してしまうが、実際にはその対象物は「存在」の外見に過ぎない。実在を不変であり、変化するものの中に持続するものであると定義し、ヴェーダーンタは存在が実在であることを明らかにする。
サットとサティア、つまり存在と真理は同義語であり、過去・現在・未来を超越しているものを意味する。存在の個々の様相は永続しないが、存在それ自体は不滅であり、絶対的なものである。
実在は単なる存在ではなく、知識または意識(気づき)でもある。 実在を単純な客観的存在と考えることは、懐疑主義や不可知論に帰結するだろう。物質主義と自然主義のすべての形は、それらについて述べることすら感覚のデータに単純化され得ない知性を必要としているので、行き詰まり、失敗するだろう。
実在を観念の流れと同一視することも正しくない。というのも、それは主観主義や自己中心主義(独我論)に繋がるだろうから。実在とは不活性の存在でも一連の主観的な表現でもない。
それは、実在は意識しているのではなく、サットとチット、すなわち存在・意識である。
意識そのものに拘わらず、換言すれば実在は純粋な存在、純粋な意識だ。 ラマナ・マハルシは「実在」をその御座所がハートであるがゆえに「ハート」と呼ぶ。肉体の中の「ハート」の位置は胸であり、中心線から右に四センチの処だ。
人は自分について尋ねられた時、本能的に自分の胸の右側を示す仕草をする。ラマナ・マハルシが肉体的な意識でいた時、その絶対的な体験の場所をハートの空間だとした。しかし実を言えば、「ハート」の中の真我の所在は、肉体的意識の観点からのものに過ぎない。
真我は、それがその人の存在の核心、つまり存在するすべてのものの中心という意味において、「ハート」の中に存在している。真我が「ハート」に座すと言われる時でさえ、その「ハート」とは相対的に経験される物質的なハートではなく、経験という中身が詰まっていない「ハート」、つまり純粋で、精神的疾患とは無縁の「ハート」である。
如何にして人は「ハート」の中心について観照すべきか? それは、観念化の方法で観照できるような外に存在する別のものではない。主体と客体の区別を伴う経験による知識は、区別のない絶対者には適用できない。
人はそれであることにより、換言すれば、それとの一体性を悟ることにより、それを知らなければならない。
わ〜い!😄