「象徴形式の形而上学」カッシーラー

彼(ルードヴィヒ・クラーゲス)によれば、忘我(Ekstase)においてのみ、すなわち、意識からの離脱、意識の抹消において のみ、生はなおも自分自身への回帰を獲得することができるのである。ところが忘我において自己を解放するのは、予想されるのとは異なって、人間の精神(Geist)といったものではなく、人間の魂(Seele)なのである。そして、魂は肉体から自己を解放するのではなく、まさに精神から自己を解放する。これこそが、人類のあらゆる現存在とあらゆる歴史を貫く闘争である


《人間以外のすべての生物が、 区分された固有の内面性においてではあるが、宇宙的な生のリズムのなかで脈打っているのに対して、精神の法則が人間をそれから切り離してしまう。自我意識の担い手としての精神にとっては、前もって計算する思考が世界に優越しているという姿で現れるものが、形而上学者にとっては、十分に深く探究しているのであれば諸々の概念のくびきの下への生の隷属という姿で現れるのである》
これによって、精神的な諸形式の世界に対して判決が下されることとなる。すなわち、精神的な諸形式の世界は、それ自身において空虚な世界として認識されているのである。
このような世界は、生の根底に対して、他者として、根本的に〈超越的なもの〉として現れるだけでなく、それに対する絶対的に否定的なものとしても現われる。

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ダビデの詩
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