ヴィヴェーカーナンダ「ギャーナ・ヨーガ」
ときおり物質より高いものの片鱗をかいま見てそれに到着しようと努力する一派があります。そしてもし、われわれがもろもろの民族の歴史を読んで、 その言外の意味を読みとるなら、つねに、ある民族の興隆はそのような人びとの数がふえることからくる、ということを見いだすでしょう。
そして没落は、むなしい功利主義者たちはそれを何と呼ぶにせよ、この無限者の追求がやんだときにはじまるのです。
すなわち、あらゆる民族の力の原動力はその霊性です。そしてその民族の死は、その霊性がおとろえ、物質主義が勢力を得たときにはじまるのです。
もし、真理をみなさんの社会に適合させることができないなら、もし、最高真理がそこに生きるような社会をつくることができないなら、みなさんの腕力のつよさを語っても、みなさんの西洋の制度の優秀性を語っても、何になりましょう。 もしみなさんが立ちあがって、「この勇気は実際的ではない」とおっしゃるなら、みなさんの壮大さや偉大さについてのこのほこらしげな談義は何になりますか。 ポンドとシリングとペンスのほかは何ひとつ実際的ではないのですか。もし そうなら、なぜみなさんの社会を自慢するのですか。
「最高の真理が実際的になる社会、そのような社会がもっとも偉大な社会である」、これが私の考えです。そしてもし社会が最高の真理をいれることができないようだったら、できるようになさい。それは早いほどよろしい。男も女も、この精神で立ちあがれ。断固として真理を信ぜよ。断固として真理を実践せよ。 世界は、二、三百の大胆な男女を必要としています。真理、人生に断固としてその真理を示す、死を前にしてもゆるがぬ、いや、死を歓迎し、人に彼が霊であることを、宇宙間の何ものも彼をころすことはできないのだということを知らしめる真理、その真理を直視する勇気をお持ちなさい。
そのとき、みなさんは自由でしょう。そのとき、みなさんは自分の真の魂に直面なさるでしょう。
一方、ヴェーダーンタはつぎのように言ってい ます、「絶対者すなわち無限者が、みずからを有限なものの 中に表現しようとつとめていることは事実である。しかし、 それは不可能だ、ということを知るときがくるであろう。 そのときには、それは退却をしなければならないであろう。 この退却がすなわち、宗教の真のはじまりであるところの放棄である」 と。
わ〜い!😄