執筆日:2023年11月18日(土)
更新日:2023年11月27日(月)
オフィシャルサイト(ポートフォリオサイト)
はじめに
所属する日本最大級の総合美術公募団体「国展」を毎年東京・国立新美術館で開催している国画会(写真部)の歴史等を簡単に紹介します。
CV(国画会)
2013年美術公募展「国展」(国立新美術館)に初出品・初入選し、翌年3年間該当者なしの国画賞(最高賞)を《光の静寂》(第88回国展)で受賞。2018年「第92回国展」で準会員優作賞を授賞し、国画会写真部会員推挙。
国画創作協会の創設
現在の国画会の前身は、1918年(大正7年)に5名の新進気鋭の画家達により、「創作の自由を尊重するヲ持って第一義となす」の理念のもとに「国画創作協会」が創設された。
彫刻部工芸部創設
国画創作協会から国画会に
約100年前の1926年、国画創作協会の名称が「国画会」と改まり、この年に第1回「国展」を開催
国画会写真部の福原信三
1939年(第14回展)、福原信三、野島康三の下に写真部を新設して総合美術団体としての現在の礎を構築する。福原信三(1883-1948)は、「良質の薬を提供し、人々に健康的な生活を届けたい」という思いで父の福原有信(1848-1924)の三男として生まれた。少年時代は、かんしゃくもちのようであり、何か気に入らないことがあると、家の棒で公人や家業の薬局の小僧さんたちに暴力を振るうことが度々あったので、「磐梯山(ばんだいさん)の破裂坊ちゃん」と呼ばれていた。そんな信三もいつの日か、温和でおとなしい人柄に変わっていった。
福原信三は、我が国における「絵画的写真」表現の第一人者と言える。そもそも絵画的写真表現は、写真の発明が公表された1839年以降、イギリスでアカデミックな絵画を合成的手法による写実的ではない絵画写真が流行した頃までさかのぼる。この写真界に新しい風を吹き込んだのが、ピーター・ヘンリー・エマーソン(1856-1936)である。彼の印象主義的な写真は、「普通の題材を自然に撮っても、それに個性的な芸術性を与え得る」ことを示し、「写真は目で見たのと同じような柔らかい輪郭線を持つべきものである」とも示したのである。この印象主義の影響を受けていると思われるのが、福原信三である。明暗の効果を重視し、対象の形態を意に介することもなく、構図はきわめて自由で、ときには大胆ですらあった。詩的な香気も漂い、格調高い名作であったのである。
福原信三が発行した『 光と其諧調』は、自然と光の調和が写真で最も重要であるとし、「光と影は写真の生命である。……この光と影が交錯した所を写真眼を通じて、夢の世界の筆彩、濃淡の種々相、無絃の光律の演奏を見ることができる。……写真は音楽とちがって空間的に動くものである。それを「印象に従って諧調を瞬間につかむと、その一枚一枚が、一つ一つ別の光律を奏でているのは、短い詩を次々に詠むのと同じ境地である。俳句を写真で詠むようなものである。」といって、彼の自然観が、俳句の自然観と似ていることを示していた」のである。
下記は、福原信三の有名な語録である。
参考文献:『福原信三・福原路草写真集 : 光と其諧調 (ニコンサロンブックス ; 3)』(ニッコールクラブ, 1977.3)
↓「資生堂企業資料館「初代社長・福原信三の芸術家としての側面」|資生堂」
「資生堂、「美を掬(すく)う人 福原信三・路草 -資生堂の美の源流-」展を開催」(リリース全表示PDF[414KB])
https://corp.shiseido.com/jp/newsimg/55_h5q09_jp.pdf
↓福原信三の略歴
版画部写真部創設
戦後から現代の国画会として
近代日本美術の先達
おわりに
公式サイト
よくある質問
国画会展覧会略史
国画会会則
過去の国展
会員紹介
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