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論語と算盤①処世と信条 3.天は人を罰せず

孔子が「罪を天にうれば、いのる所なし」といわれた言葉のうちにある天とは、果たして何であろうか。私は天とは天命の意味で、孔子もまたこの意味において、天なる語を用いられたものと信ずるのである。
人間が世の中に活き働いてるのは天命である。草木には草木の天命あり、鳥獣には鳥獣の天命がある。この天命がすなわち天の配剤となってあらわれ、同じ人間のうちには、酒を売るものがあったり、餅を売ったりする者があったりするのである。天命には如何なる聖人賢者とても、必ず服従を余儀なくせられるもので、堯(ぎょう)といえども、わが子の丹朱(たんしゅ)をして帝位を継がしむること能(あた)わず、舜(しゅん)といえども、また太子の商均(しょうきん)をして位につかしむるわけには行かなかったのである。これ皆、天命のしからしむる所で、人力の如何ともすべからざる所である。草木はどうしても草木で終わらねばならぬもので、鳥獣になろうとしてなり得られるものでない。鳥獣とてもまた如何になろうとしたからとても、草木にはなり得られぬものである。畢竟(ひっきょう、結局)みな天命である。これによって考えてみても、人間は天命に従って行動せねばならぬものであることがすこぶる明らかになる。
されば孔子がいわれた「罪を天にえる」とは、無理な真似をして不自然の行動に出づるという意味であろうかと思う。無理な真似をしたり不自然な行動をすれば、必ず悪い結果を身の上に受けねばならぬに決まっている。その時になって、その尻を何処かへ持ってゆこうとしたところで、元来が無理や不自然なことをして自ら招いた応報であるから、何処へも持って行き所がないということになる。これがすなわち「いのる所なし」との意味である。
孔子は論語陽貨篇において、「天何をか言うや。四時(しいじ、四季のこと)行なわれ、百物生ず。天何をか言うや。」と仰せられ、また孟子も万章章句上において、「天言わず、行と事とをもって、これを示すのみ」といわれておる通り、人間が無理な真似をしたり、不自然な行動をしたりなぞして罪を天にえたからとて、天が別に物を言ってその人に罰を加えるわけでも何でもない。周囲の事情によって、その人が苦痛を感ずるようになるだけである。これがすなわち天罰というものである。人間が如何にこの天罰から免れようとしても、決して免れ得べきものではない。自然に四時の季節が行なわれ、天地万物の生育するごとくに、天命は人の身の上に行なわれてゆくものである。ゆえに、孔子も中庸の冒頭において、「天の命ずる、これをさがという」と言われておる。如何に人が神にいのればとて、仏にお頼み申したからとて、無理な真似をしたり不自然な行為をすれば、必ず因果応報はその人の身の上に廻り来るもので、到底これを逃れる訳に行くものでない。ここにおいてか自然の大道を歩んで毫(ごう)も無理な真似をせず、内に省みてやましからざる者にして、初めて孔子の言のごとく、「天、徳をわれに生ぜり。桓魋(かんたい、春秋時代の宋の人物)これ予を如何せん。」との自信を生じ、ここに真正の安心立命を得られることになるのである。

岡崎市に会社を移転してからは早朝ご近所の伊賀八幡宮にお参りに行くことが日課になっていて、あまり頻繁なのもよくないと思いつつバイオリズムに変化を感じる数ヶ月に一度ほどの頻度でおみくじを引くようにしています。

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若い頃は年に一度初詣で宝くじを買うような感覚で「大吉でろ!」と念じながら引いてましたが、最近はそれこそどんなお言葉をいただけるかを楽しんでいます。とはいうものの大吉がでればうれしいし、凶がでるとテンションが下がるわけです。

昨日はちょっと早いかなと思いつつバイオリズムの変化を感じつつあったのでおみくじを引いたところ末吉でした。最近は、岡崎市移転を開始したときに大吉、そのあと小吉ときて末吉だったので、やっぱりなという感じなのですが、これが天命みたいなものかなと自然の流れに身を任せようと思うわけです。

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いま自分の健康やある仕事などでトラブルというかボヤが発生していて大火事にしないしないように進めないとなと思うものの、大胆に成敗してしまう方が爽快だよな、という思いもあったりしてそれが態度にでるわけです。いかんいかん。

渋沢先生のおっしゃるとおり「天命には如何なる聖人賢者とても、必ず服従を余儀なくせられるもの」なわけですので、自然体でこつこつと目の前の仕事を堅実にこなして、中道をゆく仲間に身をゆだねて問題をしなやかに解決していけたらと祈る今日この頃です。

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