両親の会話からあぶれる一人娘
家族の食事の時間、何を話しますか?
父、母、娘。タイトルから予想される印象とは正反対の仲の良い3人家族。
あぶれるのは
夕食時の私である。
子供がいる家庭では一体どんな話を食事中にしているのだろうか。親の一方が職場での出来事をマシンガントーク、スーパーの卵が値上がりしている話、子供が友人関係の悩みを吐露、はたまた何も話さない家庭、テレビの中のつまらない芸人を冷笑、いくつかの友人に聞いてみたところこんなにも様々な家庭があった。
我が家の食事シーンでは、テレビはつけず、両親が私の知らない話をずっとしていて、話に入れない欲求不満を抱えながら私は関係のないことを必死に考えたり、スピーカーから響くドビュッシーを一生懸命に聴いたりしている。
両親は趣味や職業柄が似ている。アート関連の話題が多く、画家、小説家、絵本作家、個展、演劇関係、図書館関係、などが主であるが、ほぼ私は会話に入れないほどのニッチな話を食事中終始繰り広げる。共通の友人がこんな個展を開いただの、この本はある問題によく斬り込んでいるだの。私の知らない人、知らない地名、知らない人生がバンバン出てきて追いつけもしないし興味も湧かない。アート関係以外にも、私の知らない親戚や共通の知人の話なども容赦なくするので、何もわからんなぁと、ぐるぐる回るレコードを見つめながら、もぐもぐと、黙々と、二人が話し終わるのをひたすら待つ(つまり食事が終わるのを待つということだが)。では、自分が3人で話せる話題を提供すればいいじゃないかという意見もあるだろう。ごもっともである。しかし、社会に接する時間が皆無に等しい浪人生に悩める人間関係も面白い出来事もクソもなく、かといって食事中まで勉強の話をしたくもなく、できることといえば天気の話くらいなのである。(正直にいえば、私は不真面目な宅浪生なので勉強の話などまともにできず、代わりにといって最近見た映画の話をしようものなら即怪しまれ家族会議が始まってしまうので何も言えない)。そんな私でも3人で話せる話題を見つけた。時事問題や社会問題である。よおしこれで私も話に入れるぞ!と意気揚々に、親に提案する。具体的には、事前に社会学に関する短めの論文を読んできて、内容についてそれぞれ思うことを話し合うというもの。結果、一週間くらいで終了した。多忙な両親に論文を読む時間など無かったこともあるが、一番はなんかつまらなかったから。人生経験が豊富で思考の深い両親の講義を私が聞き続けるみたいな構図になってしまい、会話とは言えなかった。己の力量不足をつきつけられると同時に孤独感が増しただけであった。ああ、欲求不満。なんだこの時間。一人でYouTube見ながらご飯食べたいよ。折角の美味しいご飯が不味くなるよ。
この話いつ終わる?一人で食べたいんだけど。
と私が言うと、母親は気まずそうに身体をくねらせ微笑を浮かべてから
「知らない話を聴き続ける時間も大切。大人になった時、あの頃は幸せだったなぁって思うよきっと。」
と言った。
そうだろうか。自分以外がする知らない話を黙って聴き続けるのは幸せなのだろうか。幸せって一体なんだろう。そもそも母は、自分と娘が感じる幸せは等しいと想定しているというのか。無意識の価値観の押し付けが私を時々苦しめる。そしておそらく、母が言ったこの”幸せ”は暖かい家で平和にご飯を食べている状況を指していて、自分以外の2人の会話に参加せず黙って聴いている状況を指してはいない。知らない話を聴き続けて得られるものは場の空気を乱さない忍耐力からくる社会適合性の強化、程度しか思いつかない。少なくとも、経験値の浅い19の頭ではそこに幸せを見出すことはできなかった。
いや、確実に幸せではない
思えば、家族からあぶれる食事は最近に限ったことではなくこれまでずっとそうだった。では昔のあぶれている状況を現在の自分が「あの時はなんだかんだ幸せだったなぁ」と思うかどうか考えると、別に幸せを感じてはいなかった。よって、母が言う「幸せだったと感じるよきっと」は否定される。かといって、最近ほど孤独感や辛さを感じていたかと言えばそうでもなかったと思う。幸せでも無いし不幸せでも無い凪みたいな時間。理由を考えてみれば、学生生活による悩み事や楽しい出来事を1人でよく思い出し、暇を潰せていたからかもしれない。両親が会話する傍ら1人で何かしら考えることは容易だった(あとは、部活終わりでヘトヘトになり何も考えられなかった説もある)。今は専ら受験への不安、最近見た映画のことくらいしか考えることが無い。そしてもう一つ、昔は両親と会話することに執着がなかった。食事中に家族と無理に話さなくても、学校に行けば思考をガンガン友達にぶつけられた。一方、家族しか話し相手のいない宅浪生には、食事中の会話しか声を出す瞬間がなく、それが奪われるとなると苦しくなるのは当たり前だ。
家族、食事中、しがらみ
同じような状況は小中高で散々体験してきた。意図せずとも、3人でいる時に自分だけ知らない話を2人でされる状況は結構あるあるだと思う。でも、そうなったら私はその場から離れるか、それができない場合はスマホを見たり違うことをしたりするなど対処してきた。興味のない話に無理に入るなんて疲れるだけだからしない。しかしこれは友達に対してでしか使えない対処法であり、家族に対してではたちまち役立たずになってしまう。食事中にスマホや小説、漫画を持ち込むなんて言語道断、1人で食べるのも不可能、テレビも見られない。唯一できる対処法は、リビングに流れるBGM(主にクラッシック曲)を聴くことと、1人で思考することである。しかしそれも苦行に近い。人の声はショパンの革命よりも主張が強いからだ。ベートーヴェンの月光第三楽章よりも、ドビュッシーのトッカータよりも強い。ボリュームをこれでもかと大きくするといったせめてもの抵抗も無駄に終わるほど。いっそノイズキャンセリングイヤフォンを装着して食事できたら思考しやすいのにと思うがそうもいかない。
私は未熟か
おそらく、大学でも社会人の中でも同じような状況にぶつかるだろう。どうしても我慢しなくてはならない時が来る。そう言う時のための練習だと思うしか、この孤独感の逃げ場はないのか。もしかすると、私が未熟なだけで、みんな当たり前のように我慢しているのかもしれない。社会にろくに出たことのない私には知りえない、常識やマナーがあるのかもしれない。そうだとしたら社会はとても恐ろしいし、私はそれに慣れることも迎合することもできそうにないししたくない。
とにかく、大学進学時に家を出ていくつもりなので親との食事の機会はもうほとんどない。あと数日。辛抱するのはあと数日だから、まだ頑張れる。