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NBC村山仁志アナウンサーの『放送終了アナウンス』は、もっと評価されるべきだ!

一週間に一度、メインテナンスで放送を終了する時のアナウンスほど、寂しく、美しいものはない。

局によってはその局で一番の重鎮、その局で一番上手い、その局で一番人気があるアナウンサーが担当する。ほとんど誰も聞かない放送だが、全番組を綴じるアナウンスだから、それなりに重々しく扱われて然るべきだと思う。

放送開始については、昔から凝っている局が多いが、終了については開始ほど力を入れていない事がある。

放送終了の『名作』といえば、Tokyo FMのものが挙げられる。シンプルなアナウンスに続いて、マントヴァーニ楽団のクラリネットとストリングオーケストラによる『歌は終わりぬ』が流れるというだけのものだが、何より、全番組をかあた歌は終わりぬ』で綴じるセンスに日本最初の音楽放送局としての矜持を感じるし、また、拡がりのあるマントヴァーニ楽団の演奏を使ったところに、かつてニューメディアの一つであった『ステレオ放送』のトップランナーであった誇りを感じる。

何より、この放送終了は、Tokyo FMの歴史より長く(!)、前身のFM東海(東海大学FM実験局)から使われてきたものなのである。半世紀近く使われて続けている放送終了というのは例がない(開始音楽は琉球放送に60年を越えたものがある)。

TFMの終了を聴くと、FM放送の本質がわかる。FM放送は…ここから先は聞きたい人だくにお話します。

さて、終了アナウンスの美しさから言えば、2019年初夏現在、長崎放送・NBCラジオのものが最も美しい。

担当は言わずと知れた人気アナウンサー・村山仁志さんのもので、彼のバリトンボイスが美しいのは当然だが、局名とコールサインとさまざまな数字の並ぶ『最も無機質な原稿』をこれだけ情緒たっぷりに読める人はいない。

真の放送人なら、自局のIDアナウンスや、コールサインを口にする時に格別の想いを寄せる。それは、公器としての矜持と責任だけでなく、放送局の設立者たちの苦労への想い、歴史などへの尊敬が加わるのだ。

一方、このアナウンスは、電波法で定められたものだから、内容に触ることはできないし、演出もできない。せいぜいBGMを選べるくらいである。つまり、アナウンサーの読み方で勝負が決まるのだ。

村山仁志アナウンサーの終了アナウンスは、アナウンサーとしての最も標準的なやりかたを取ってはいるが、羅列になりがちなアナウンスを、微妙な歌い調子(=美的な抑揚のある)にして、聞いていて心地よいものとなっている。

素晴らしい前例が、放送界にはある。NHKで1950年代から80年代末にかけて活躍した異色の名調子アナウンサー・中西龍さんである。中西さんは『にっぽんのメロディ』など、歌番組や、退職後の『鬼平犯科帳』のナレーションがよく知られているが、『伝説の気象通報』と呼ばれるものがある。私は実際の放送を聞いたことがあるが『福江では、南南東の風…』『広島では…』『釧路では…』と、地名を口にするごとに、その土地への郷愁を感じさせるもので、さらに『大連では』という部分では黄色い荒野の世界や引揚者の苦労を、『ウラジオでは』という部分では、白黒写真に写るロシア戦艦や明治時代の日本人町への想いが湧いてくるような『涙なしには聴けない気象通報』だった。

いろんな事情で中西さんが名古屋放送局に飛ばされていたとき、一人静かに気象通報の原稿を使って練習していたのを、東京から来た同僚がたまたま耳にして、その素晴らしさを報告して、東京放送局に戻ることが決まり、歌番組のナレーションに就いた、という話がある。

長崎放送は、中継局が大変多いのだが、さすが歴史的観光県だけあって、地名そのものに味わいがある。長崎、佐世保、島原、諫早、平戸、佐賀、唐津…どれも歴史や国語の教科書に登場する。これを村山アナウンサーが口にするとき、彼の(きっと小説家としての想像力の豊かさと、描写・表現の豊かさの原資であるはずの)『愛ある妄想力』が、抑制の効いた歌い調子になる。声の若々しさに助けられてクサくはならず、むしろ、風光明媚なる風土を表現しているのである。こんな芳醇な放送終了アナウンスは、聞いたことがない。

ちなみに、その数時間後の放送開始アナウンスも村山さんであるが、こちらは案外さっぱりとアナウンスしている。この使い分けが大事なのだ。

真夜中の、誰も聞いていないような時間にたまたまダイヤルをあわせてしまったリスナーへの、名残惜しさと愛情たっぷりのアナウンス。

アナウンサーとしての技量を超えている。こんなところから、もっとデカい潜在能力を発見できなければ、昭和のラジオは超えられない!

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