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Day10 戦時下であるということ

ブダペストの安宿に、スラブ系の言葉を話す家族が泊まっていた。小さな子供が2段ベッドを叩いたり飛び跳ねたりしている状況に少し苛立っていた。そこへ父親らしき男性が入室すると、一言二言吐き捨て、子供を叩くような音が聞こえた。するとベッドの揺れはぴたりと止まり、声さえ聞こえなくなった。それはそれで心配になる…。

経験上、こういった安いホステルのドミトリーに家族が泊まることは稀で、ましてや子供がいることは極めて少ない。もしこの家族がロシア人だとしたら、東欧諸国に待機しながらシェンゲンビザが降りるのを待っているか、あるいはどこか別の国へ亡命するために苦肉の策でこうした宿を渡り歩いているのかもしれない。

東欧地域に滞在している間、今が平和な時代ではないことを強く意識させられる瞬間が何度かあった。滞在している人々の会話の節々にそれが現れる。ロシア人、イスラエル人、シリア人、アメリカ人、中国人、いろんな人に会って話をしたが、それぞれのナショナリティに即した政治観や歴史観が鋭敏になっており、初夏の陽気とアルコールに身を任せつつも閉塞感を覚えるアンビバレントな社交が断続的に続く。

そう、今こうしてテキストを書いている最中も生死と勝敗をかけて無数の人命が危機にさらされている。
私が景勝地を散策し、その地の料理に舌鼓を打つ時にも、弾丸の掠める音や爆撃ドローンの羽音に塹壕で身を震わせる人たちがいるということをふとした瞬間に思い出す。

ブダペストの国立博物館へ行った。
紀元後1000年、ハンガリー公イシュトヴァーンが建国をし、初代国王に即位してから1000余年。
オスマントルコ、ハプスブルク、ナチス、ソ連。大国や豪族の覇権のもと、ハンガリーは様々な圧力に翻弄されながら、ほんの束の間の穏便な時代を経て独自の文化を育んできた。あるいは、それらの外圧による反動として民族の独自性を強く意識することになったとも取れる。

観光立国として圧巻の美を誇るブダペストも、たびたび戦禍に脅かされ、その惨状の記憶を忘れぬようにと、あらゆる場所で創意工夫がなされているのがわかる。

「大切なのは皆がしっかりと歴史を知り、認知することである」そういったのはフランス留学の余暇にブルガリアのソフィアへやってきた若い中国人の男性だ。雲南省の出身で、社会言語学を学んでいると言っていた。
彼のいうことは尤もだけれど、「たとえばプーチンは歴史に対する意識が偏り過ぎているし、同様に各国それぞれが正しい認識としているものは、他国からすれば全く事実無根であったり、誇張されたものであるが故に、正しい歴史認識がなんなのか、本当のところ私はわからない。それついてあなたはどう思う?」と聞き返したら、困り笑いを浮かべながら閉口してしまった。

英語が不自由であることも原因かもしれないが、歴史認識には正解がないという事実、そのカルデサックに私たちは二人並んで立ちつくし、ひとしきり腕を組んで黙りこくることしかできないわけだ。
宿に住み込んで働いているタバコ呑みのブルガリア人の爺さんが「ボンヌイ!(おやすみ)」と言って置いてったウォッカを、二人は黙って、しかし緊張はなくどこか郷愁を共に馳せるような優しさを伴った心持ちで口に運ぶ。ヒリヒリと舌に染み込むそれは、心なしか少々甘く感じられた。

どうしようもないので、「だからこそ、直感に訴えかけるアートや、音楽、カルチャーの力に助けを借りて、過去への理解だけでなく未来を創建するための共感を促すことが重要なのだと思う」と続け、その場を片づけ、彼もとりあえずの解としてそれに賛同し、首を縦に振り僅かに微笑んだ。
それはただウォッカの強い刺激に戯けているようにも見え、曖昧な反応ではあったけれど、私はアジアの同胞とこうした会話ができてよかったと思った。

ブダペストのオクタゴン駅付近は夜になってもトラムやバスの駆動音が響き渡る。時折過ぎゆくパトカーのサイレンを聴きながら、少しずつ瞼の重みに耐えかねて、今日も眠りにつくんだと思う。

歴史、色彩、音楽を通して体感するヨーロッパの横断旅行。すでに9分の1が終わり、流れ行く時の速さに一抹の不安を覚える。