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バーでベロンベロンに酔っ払って人生を語っていたらキャバ嬢と付き合っていた話
僕はキャバクラとか夜のお店というのは行ったことがない。
正直言って、貧乏人には相当無駄なお金の使い方だ。金持ちに有り余るお金を使ってもらって経済を回すのならば、とても良い使い方だと思う。
しかし、僕は世の中の大体のものは金でなんとかなると思っている。
そもそも本当に大切なものは金があってもなくても手に入らないものだ。
例えば愛。
30歳になりたてのころ、村上春樹の小説に出てくる主人公のようにスコッチウイスキーなぞを飲むとカッコいいと思い込んでいた僕は、小洒落ているけど、肩のこらなくて、そこそこに安くて通えるバーというのを探していた。
何度も失敗を繰り返しながら、ようやく静かすぎず、程よくマスターが話しかけてくれて、ひとりで時間を過ごすのに適したバーを見つけることができた。
そして、正露丸の味のするウイスキーをクソ不味いと思いながらも大人ぶって飲んでいるのだった。
常連さんもいてマスターを中心に話していると、自然と仲良くなっていった。
こういう狭い人間関係の中だと、波風を立てないで程よく付き合うのがよい。
仲良くなりすぎても、不仲になってもせっかくの居心地の良い場所が失われてしまう。
職場やサークルなど自分の軸足を置いてる身近なところで恋愛をするのはアホウなことだと思っていた。
僕はバーの中では微妙に浮いていながらも、空気のように存在していた。常連さんの中でも話の輪の中で常に中心になって、店の外でも交流するような人が気にかけてくれたりする。
でも、苦手なタイプがその輪の中にいると、途端に人と関わるのが嫌になるのだ。和気あいあいの中にいて、空気になると逆に浮いてくるものである。
楽しそうに話している人たちの中、ひとりでバーの片隅で、ちっとも美味いと思っていない正露丸の汁を飲んで何が楽しいのか。
今となっては、自分でもわからない。
そんなある日、バーで飲んでいると深夜12時も回っているころに、明らかに水商売風の女性がおぼつかない足取りで入店してきた。
歳は20代前半だろうか。茶髪を通り越した明るい長い髪に、黒のジーンズ。ピタッとした白のノースリーブニットからはおへそがのぞき、ピアスが光っていた。
バーは翌日が土曜日とあって、遅くまで飲んでる常連さんで半分ほど埋まっていて、僕はカウンターでやはり場から半分浮いて、半分空気になって、みんなの話に頷いたりニコニコしながら飲んでいた。
女性はズカズカと店に入って、カウンターに座った。
「ウイスキー!ロック!ダブルで」
女性は何かプリプリと怒った様子でつぶやいていた。
「あの。おやじ……。……やがって……。マジむかつく……」
ウイスキーが女性の前に出されると、おもむろにグラスをつかみグイッと飲み干した。
「おかわり!」
常連さんたちも変なやつが入ってきたなと一瞬ギョッとしていたが、関わらない方がよいと判断したのか、なかったものとして会話を続けている。
しかし、この終電も過ぎた深夜のバーで、常連ばかりの完全アウェイに入ってくる度胸がすごい。
僕だったら「あの…。まだやってますか?あ、やっぱり大丈夫です」と、尻込みしてドアを閉めて逃げることだろう。
実際に何回か怖じけづいて、入れなかったこともある。
女性は相変わらずブツブツと文句を言っている。
マスターも店をクローズにしておらずに、席に座ってしまっているので、追い出すこともできず心配そうに見ているしかないようだった。
カウンターの1番奥に座っている僕の席から、ひとつ空けてカウンター席の隣に座られたので、僕は会話の輪からも完全に外れてしまった。
これはもう帰ったほうがよいなと、グラスを空けマスターの方を見て、会計をお願いしようとした。
すると女性が
「何、見てんのよ」
と、絡んできた。
「あんた、今、私のことを見てたでしょ」
「いや、あの。違いますよ。マスターに……」
と、しどろもどろに説明していると、僕の空いたグラスを見て
「あんたグラス空いてんじゃないのよ。なんか頼みなさいよ」
僕の隣の席に移ってきた。
仕方ないのでマスターに正露丸汁のおかわりを頼んだ。
「あんたウイスキーわかってるじゃない。私もこれちょーだい!」
何か知らないが気に入られたようで、そこから延々と彼女の愚痴が始まった。
やはりキャバ嬢だったらしく、キモいおやじの話を聞かされる。
「聖子ちゃんなんて知らないっつーの。昭和がっ!」
「聖子ちゃん歌ってってしつこいから瑠璃色の地球とか覚えて歌ってやったら、『僕のために覚えてくれたの?』って、手を握ってきやがってキモくて吐き気がするわっ!」
彼女がハイペースで飲むので、実はお酒が全然飲めない僕もハイペースでウイスキーを飲むハメになった。
「うんうん」と、彼女の愚痴に適当にあいづちを打ちながら、帰るタイミングを見計らっていた。
そのうち僕も相当酔いが回ってきて、気づいたら自分語りを始めていた。
なんだか僕も溜まりに溜まったものがあったらしい。何を話したかは酔っ払っていてあまり覚えてはいない。
多分、自分の子どもの頃から、仕事のこと、ひょっとしたらとても好きだった元カノのことも語っていたかもしれない。
気分が良くなってノリに乗って話していたところ、彼女が僕を見つめながら言った。
「付き合って」
僕は何を言われたかよくわからなかった。
「気に入った!付き合って!」
僕はあっけにとられていると、マスターが
「そろそろ閉店なんですが」と、申し訳なさそうに声をかけてきた。
僕も相当に酔っていたけど、彼女は僕よりさらに飲んでいたので、マスターも帰れるか心配になったようで、空気のように無害な僕なら無事に送り届けてくれそうだと思ったのか、完全に送っていく雰囲気になっていた。
しかし、彼女は意外なことに、意識はしっかりしているのだ。
さすがキャバ嬢だなぁと感心してると、さっさと会計を済まして、タクシーを呼んで乗り込んだ。
これなら大丈夫だな、と帰ろうとしていると、彼女が手招きをしている。
なんだ?と近づくと、ネクタイを思いっきり引っ張られてタクシーに転がり込んでしまった。
「送って」
彼女はお酒くさい息で僕の耳元で囁いた。
バーからは自分の家は歩いて40分くらいなので、酔い覚ましついでに歩いて帰ろうと思っていた。
家の方向を聞くと、僕の家に帰る途中だったので、下ろしたらそのままタクシーに乗って帰ればいいかと、乗ることにした。
彼女はタクシーの中、ご機嫌で瑠璃色の地球をずっと歌っていた。
昭和とか言って、実は気に入ってんじゃん、と心の中でツッコミを入れていた。
とても上手で綺麗な声だった。オヤジも手を握るわけだ。
彼女のマンションの前に着くと、彼女を下ろして運転手さんに自分のうちの住所を告げようとしてると。
「あんたも降りるんだよっ!」
と、またもやネクタイを引っ張られて引きずり下ろされた。
タクシーの運転手も揉め事に巻き込まれたくないのか、すぐさまドアを閉めて走り去った。
彼女は僕の手を握り相変わらずご機嫌だ。
バックを振り回して、相変わらず瑠璃色の地球を歌っている。ヒールを脱いで手に持って、クルクルと踊るように回る。
僕は彼女が踊るように歩く姿を見て、不覚にも「ああ。美しいな」と思ってしまった。
実際、喋っていない彼女は本当にきれいだ。
彼女は5階の自分の部屋の前に立つとゴソゴソとバックをまさぐって鍵を取り出した。
「あったぁ〜」
「にひひ」っと笑って扉を開ける。僕のネクタイを引っ張って部屋に連れ込まれる。
ネクタイは首輪でリード、僕は彼女の犬になったみたいだ。
彼女はソファーに倒れ込んで、ケラケラと笑っている。
「楽しい。仕事終わってあの店に入るまで、最悪の気分だったのに」
ソファに仰向けに寝転がった彼女が僕を手招きする。僕がソファーの横に屈んで近づくと、ネクタイを引っ張り囁いた。
「おいで。私のワンコくん」
僕をギュと抱きしめると、頭を撫でて匂いを吸う。頭を抱きしめる手が緩んで、目と目が合って見つめ合った。
彼女はゆっくり目をつむる。
僕は吸い込まれるように顔を近づけると、
彼女は思いっきり寝ていた。
大きないびきをかきはじめて、完全に寝てしまったようだ。
仕方ないので、彼女を寝室まで運んで寝かしつけた。彼女はとても軽かったけれど、意識のない人間を運ぶのは結構大変だ。お姫様抱っこなんて、想像上の概念だ。
風邪をひかないように、彼女に布団をかけたあと、僕はソファで横になった。帰ろうかと思ったが、僕もかなり酔っていたので、睡魔には耐えられなかった。
どれくらい寝てしまったのだろうか、陽の光がチラチラとまぶたの裏を赤くして、鼻をコーヒーの香りがくすぐる。
僕はガンガンと響く頭の痛みと、ぐるぐると眩暈のような気持ち悪さで目が覚めた。
「おはよう。ワンコくん。お目覚めかな?」
僕はゆっくりと起き上がる。見ると彼女は部屋着に着替えて、シャワーも浴びたのかさっぱりとしている。テーブルにはコーヒーとトーストと目玉焼きが準備されていた。
「食べる?」
彼女は僕の顔を覗き込んで、キラキラとした瞳を大きく開いて笑顔だ。
「コーヒーだけもらいます」
「なんだ、なんだ〜。少食かっ」
彼女はもりもりとトーストにかじりついていた。
「あの。僕がいうのもなんですが、こんな初めて会ったわけわかんない男を部屋に入れるのよくないですよ」
僕はコーヒーをすする。気持ち悪さが少しやわらぐ。
「きみ名前は?」
「僕ですか?」僕は名前を名乗った。
そういえば、まだお互い名前も知らなかった。
「ほら、もう知らない男じゃない」
「いや。そういうことじゃなくて」
「それに私、人を見る目あるんだぁ。だってきみ何もしなかったでしょ」
「まぁ。何もしてはないですが……」
彼女は酔って、僕がキスする寸前だったことを覚えてないのかも知れない。
「いま、どうせ酔って覚えてないだろうって思ったでしょ。ちゃんと覚えてるよ全部」
彼女はスラスラと昨日、僕が酔っ払って語ったことを話しだした。僕の生い立ちから、仕事まで。
そんなことまで話したのかと、自分でも覚えていなかったことも。
「私、付き合ってっていったでしょ。好きじゃない人なんて部屋に入れないよ。男の人がうちきたの初めてだし……」
急に顔を赤くして、声が聞き取れなくなってしまう。
「あ!そういえば返事聞いてなかったよね?付き合ってくれるの?」
そのあまりの純粋な可愛さに僕は思わず頷いてしまった。
彼女はとても魅力的で可愛くて、ケラケラと笑って、ズケズケとものをいった。
彼女と一緒にいると、いつでもどこでも遊園地のように、楽しくキラキラ光った。
目まぐるしく変わる表情と、踊るように歩く姿にいつも見とれてしまう。
そんな眩しい太陽も夜の現実が覆っていく。
彼女が帰宅して僕に電話してくるときは、いつも夜中の2時過ぎだった。僕は明日の仕事もある。話を聞いてあげたいのだけど、お客さんの愚痴を聞くことも多くなる。
「おっさんが、太もも触ってスカートの中にも手を入れてきた」とか、「月50万円で愛人にならないかと誘われた」とか。
「歳はいくつくらいのおっさんなの?」と聞くと35歳くらいで、僕と大して歳も違わなかったりすると、その雰囲気を察してか
「ワンコくんは気持ち悪いおっさんじゃないよ」
とフォローしてくれるのだけど、彼女と10歳も離れていればそう見えるのという現実もある。
他の男の人をもてなす仕事をする女性と付き合うと、仕事とわかっていても、彼女が男の人と親密そうにしていたり、営業と分かっていてもLINEをしていることに嫉妬してしまう。
そして金銭感覚もだいぶ違う。デートでランチをするときも、旅行の計画を立てるときも、ちょっと僕はためらってしまう。それに気づいた彼女は「私が多めに出すよ」と言ってくれるのだけど、自分のちっぽけなプライドがそれを拒否する。
彼女は「うん。じゃ他のとこにしよっか」と笑顔で返してくれる。本当に彼女のやりたいことをさせてあげられない。どうでもいい僕のプライドのために。
そういったものが少しずつ静かに降り積もった。
始まりも突然だったけど、終わりも本当にあっけないものだった。
ある時、彼女のLINEに「うん」とだけ返した。
何に対して返事してのかは細かく覚えてないほど、ささいなことだった。
「それ、本気で言ってる?」
「もういい」
その彼女の返信のあと、僕のLINEには既読がつくことはなかった。
本当にたったこれだけのやり取りで、あのキラキラした日々は終わりを告げた。
彼女に会いに行って謝ればよかったのだろうけど、静かに降り積もった何か悪いものは、もう愛してるの心を静かに殺してしまっていた。
ああ、やっと終わった。
僕はホッとしてしまったのだ。
「私の全部、忘れないでね」と、送ってくれた彼女が何もつけないでベットに横たわった写真は別れたときに消してしまったけど、
「忘れないでね」
の言葉とともに心に焼き付いている。
ケラケラと笑っているところ、すぐに僕のネクタイを引っ張る癖。
僕がもう少しお金持ちだったら、彼女を自由にさせてあげられたのかも知れない。
お金があっても手に入らないものは、お金がなくても手に入らない。
例えば愛だ。