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Alone Again-Naturally ~「日常」が「夢」に切り替わった瞬間

都内の私大に通う、大学4年のだっつーです。サークルでの卒業アルバムの撮影を今日はしてきました。その帰り道に思ったことを発信できればと思い、エッセイ風(日記風?)に書き連ねました。


まどろみの中で

すべて夢だったのか…?
ふと目覚めたとき、そう思いそうになった。
ここはJR常磐線の車内。大学からの帰り道に居眠りしてしまったらしい。

だが、そう思うのも無理はない。


・約1年ぶりのサークルメンバーとの再会

この日、僕はサークルの卒業アルバムの撮影のため、約2か月ぶりに都内の大学に向かった。実際のところ、サークルの仲間と会うのは、今年の2月以来でほとんど1年ぶりだった。

久々にサークルのメンバーに会うと「TwitterとInstagramでしか見ない」とか、「生きてたのか?」といった声だった。

それもそうだ。僕はこの4年間、茨城県牛久市の実家から通学している。電車でも1時間半はかかる。友人の多くは首都圏に実家があるか、1人暮らしだ。この牛久という町は東京に通学できるか、ギリギリのラインだと思う。

そんな中、やってきた新型コロナの大流行。大学も当初は4月の半ばから再開と言っていたものの、GW明け、春学期すべてオンラインとずるずると授業再開が伸び、学校に行く必要がなくなってしまった。こうなると、定期を買う必要はない。首都圏への運賃がカバーされなくなるため、もちろん足取りは重くなる。それでいて、なかなか収まらないコロナの流行。夏にかけて少し減少傾向も今や第3波ともいわれる具合に。緊急事態宣言や県からの外出自粛要請もあり、外出への心のハードルも上がり、まして飲みに行くことを避ける自分がいた。現にサークルの活動もほぼ中止。オンラインで行う方式も取っていたが、対面で行えないことに気乗りがしなかった。

秋学期も授業はゼミを除けば、オンラインという流れは変わらない。学費も払ってる上に、あと半年で卒業だと思い、10月に2度、対面と併用でゼミの授業を行うというから大学に行った。しかし、そこにいたのはゼミのメンバーの半分もいないという状況だった。地方の実家に帰ってしまった人。また、大学から比較的近い距離で暮らしていても定期が切れているため、週1回の90分のために、顔を出すのはもったいないという人。とにかく、いつも通りの授業とは程遠い現状だった。そのため、大学に行っても活気はなく、強い感情を抱くこともなかった。それから、自分自身もそれだけのために、お金と時間を使う気も失せてしまい、11月は一度も学校に行かなかった。

それが今回、アルバムの写真撮影ということで、久々に大学に足を延ばした。現に4年のメンバーの大半が集まった。この地点でもなかなか懐かしい思いを抱く。それでいて、その名残惜しさから何となく残って写真を撮り合い、ダラダラと時間が過ぎる。そこから、昼食を近くに食べに行った。サークルのメンバー計8人で校門近くのイタリアンの店に行った。こんな大勢で食事に行くのは、2月以来だった。友人達もそれは同じだったらしい。

大学4年とだけあって、話は進路になる。多くは都内のオフィス勤務。生活圏は変わらないらしい。内定先から電話がかかってくる友人もいた。ふと、ある友人が言った。「これで会うのも最後かもしれない」と。確かにそうなのだ。まず、卒業式を行えるか。それがかなり難しくなってきている。現にゼミは冬休みに行う合宿は中止になることが、学校の方針により決まった。また、自分自身も茨城の方で就職が決まった上に不定休となる。そうなれば、社外の人々と日程を合わせるのも難しいことは容易に想像がつく。

昼食を取った後は、何となく流れ解散になった。卒論の提出が近いにせよ、普通ならここから何か、カラオケに行くとかどこかに行くという流れになるのかもしれないが、誰も切り出しはしなかった。自分自身としても、そういう思いはあったが上記のことを考えると切り出すことができなかった。だから午後1時くらいには学校周辺を後にし、家路に向かった。


・かつての「日常」は「夢」なのか

午前11時集合だったことを踏まえれば、その時間はわずか2時間程度に過ぎない。だけど、くだらない会話で笑い合い、何となく時間が流れていく。そういうことを繰り返していたのが、きっと自分の大学生としての日常だった。何ならこのコロナがなければ、その日常は当たり前のように続いて、今この時期にこれほどノスタルジーに浸ることもなかったのかもしれない。

今の僕はこの通り、外出することも減った。それでいて、家族外の会話も大幅に減った。アルバイトはしているが、スーパーのレジ打ちということもあり、そこに入れば会話する暇もないほど、商品を打ち込まないといけないことが多い。それに加えて、感染防止用の透明プラスチック版がレジ間の会話に障壁を生み、会話しづらくしていることも否めない。アルバイト間の会話も休憩のタイミングが別になるため、シフトに入る前くらいしか話すことができないのも現状だ。

たった2時間だ。けど、そのわずかな時間の中に、今日僕はコロナがなかったらどうなっていたかという「もしも」の可能性。地元で完結してしまう今こそが「普通」に移り変わってしまったという「現実」を突きつけられてしまった。まさしく、かつてあった「日常」が「夢」のような話にも見えてくるのだ。

こうした状況は足掻いても変わらない。こんな「現実」をいかに自分らしく美しく、楽しく、価値のあるものにするかは結局は自分自身だ。そのための努力は怠らないようにしていきたい。


・余談

タイトルの「Alone Again - Naturally」は1971年のイギリスのギルバート・オサリバンの楽曲だ。この楽曲自体は自分自身詳しいわけではないが、Mr.Childrenの桜井和寿が「Over」を書くときにインスピレーションを受けた曲だという。明るいメロディーラインにもかかわらず、内容は失恋メインであるこの2つの楽曲。前者に関しては、自殺する直前にまで至っているという。メロディはおそらくどこかで聞いたことがあるのではないだろうか。後者は、自分がミスチルの中でも歌詞がとにかく好みでお気に入りの楽曲だ。男性なら共感できる内容だと思う。2つとも聞いて見てほしい。名曲だ。

まあ、そうしたことはこの記事とは関係ないが、ただ自分の中で孤独というものがいかに普通のことになってしまっているか、明確な楽曲名だと感じ、今回のタイトルに付け加えさせてもらった。



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