リベラリズムの限界について
自由主義(リベラリズム)について検討していきたい。
そもそも「自由」にismをつけることに違和感がある。反ismにして、脱ismがすなわち自由なのだから。平たくいえば「押し付けがましい自由」とはどんなものなのかというが、本noteの趣旨である。
リベラリズムの旗の下、さまざまな権利拡大が叫ばれている。例えば、男女別姓による戸籍制度の破壊、性別に対する「性自認」という無効化、延いては同性婚による家族制度の崩壊などである。
戸籍、性別、家族というものは、もちろん保守的で、伝統的な制度である。当然そこに野放図な自由はない。したがって「ism付きの自由」は、このような我々の生活基盤である保守的・伝統的制度を叩くのである。最大の問題は、そこに叩くということ以上の意味も意義も見当たらないということにある。すなわち、「ただ叩きたい」のである。議論し、問題点を見つけ出し、何か改善しようという姿勢がどうやら見当たらない。なぜか?それは「ism付き」だからである。イデオロギーに妥協はなく、妥協しないことが正義なのであって、ただ問題は「自由」に中身がないことである。
「自由」に中身がないとはどのようなことか?
自由とは何か? 自由とは、独立して存在し得る概念であるか否か? なるほど、人間は須く生まれながらに自由であるといっても良いだろう。しかし、そのような人間は生きながらえことはできない。生まれたての赤ん坊はどこまでも自由でありながら、生存のためには母親の庇護が必要である。文化的動物である人間は、他の動物とは比較にならないほど庇護を必要とする。いってしまえば、生まれながらに自由な人間は、何もできない。そこには生存すらも含まれる。我々は、庇護という名の柵(しがらみ)によって生き存え、文化という暗黙知によってできることを増やしているのである。さらには、制度によって未知の問題を未然に防ぎ、禁止によって絆を深めてきたと言えるだろう。
では、これらに反発することや否定することが「自由」なのだとしたら、その中身はなんだろう? 極端に言えば、(従来の)人間としての生き方の否定となる。よろしい、では具体的にどのようなに対案があるのか? となる。もちろん具体的な提案などありはしない。肉を食べてはいけない、野生動物の生息地を奪って育てた穀物を食べてはいけない、動物を殺してはいけない、例え殺すにしても人道的に・・・ただただ、文化を否定しているだけなのだ。
果たしてこのリベラリズムという運動の本質はなんなのであろうか?
共産主義に端を発す反帝国、反ファシズム運動の派生であるのか? それとも第二次性徴期に患う精神不安の集合体なのか? はたまた社会主義陣営から投げ込まれた混乱思想なのか? とにかく現代社会において、十分に根を張ることなく、現在のリベラルは縮小または枯死しつつある。
これでめでたしめでたし、とはならない。
根本的問題を言及できていない。それは私たちの中に、どこかリベラリズム的ぐずり感情がちゃんと存在しているということだ。何かぐずっているのである。頭ではわかっていても、なんだか抵抗したい、いっちょがみして批判したり、否定してみたりしたい。けれどもどうして良いかなんてわかるわけもない。すなわち暇で無能なのである。
「暇」は、人間にとって最後の課題である。「死」? 冗談じゃない。その問題は、最古にしておよそトップ3に入る課題であって、幾つもの解決策が提案されている。もちろん回避することも何かに置き換えることもできないままであるが。
話を暇に戻そう。
人類は、暇と共にあった。暇が文化を育み、物語を紡ぎ、科学を発展させた。暇に憧れ、暇を見つけ、暇を潰し、暇に殺されかけている。
暇のないあなたにとって、暇とは最上の目標である。暇に明け暮れるあなたにとって、暇とは人間そのものの空虚さを突きつける地獄である。
そして、暇は自由ではない。これが辛い。自由には方向性がある。あなたがふと感じる自由、様々な拘束や約束からの解放(消極的自由ともいう)は、リベラリズムがいう自由ではない。暇なのである。これは弱毒かもしれないがついには死に至るものだ。1日や2日の暇は、むしろ良い気分転換にすらなるかもしれない。しかしこれが、1週間、1ヶ月、1年となったら気が狂う可能性すらある。スマホをいじるかゲームをするか、読書をするか、旅に出るか。さてはて大胸筋か大腿筋を育てみるか。様々な方法でこれを潰していくしか正気を保つ手段がない。達成感? それは有能な人間か勘違いした人間だけに訪れる幻想である。人間の行為に価値などなく、当然たてられた目的や目標の全てが無意味である。したがって、そこに至ったところで一体何になるというのだろうか? よっぽど他人を喜ばせることのできる有能なパフォーマーであるか、自分の中だけで充実できる勘違いだけが満足という名の虚構の中にいられる。他方で、多くの凡人にとって、暇とは恐怖でしかない。だから暇を自由として置き換え、分割し、押し付け合うのである(積極的自由の議論)。
積極的自由とは、自らの生活や時間を自らが支配できることとされている。これまでの議論の流れで定義するならば、暇(無駄で無意味な時間を過ごしながら)でありつつ充実しようという無茶な試みである。さて、これは可能か? 結論から言えば可能である。例え凡人であってもだ。そのやり方はすでにあちらこちらで行われている。ジェンダー活動、ヴィーガン活動、環境活動などなど、モノとエネルギーの不足とは無縁の豊な社会において、たっぷりとその恩恵を受けながら真っ向から批判する思春期真っ只中のようなぐずり活動がそれである。
ここにはいくつかのポイントがある。
①集団化すること。決して一人ではやらない。孤独は即効性の高い毒である。対面であれ、SNSであれ、なんであれ群れる必要がある。
②過激化すること。無意味で無価値なのだから飽きる。退屈とはすなわち暇である。暇を潰すための活動なのに退屈なのであれば、完全に無駄である。そのためどうしても過激化していくほかない。
③無関係な人々を巻き込む。①と②を混ぜ合わせると、これが必然的に生じる。したがって対立構造が形成され、いよいよ面白くなってくる。なんだか使命感のようなものが生まれ、連帯感が醸成されていく。場合によっては危機感すら覚えるかもしれない、無意味で無価値なのに。
④最終局面として、駆逐されていく。当然である。そもそもは暇人の暇潰しなのだ。巻き込まれた忙しいマジョリティにとっては迷惑でしかない。いい加減にしろ、となる。
この日本国でも暇な問題があちこちにある。例えばクマである。冬眠を間近に迎えたクマたちにとって、たっぷりと栄養のある餌の確保は急務である。当然人里にも出没するだろう。このクマをどうするか? 文化的に言えば鍋にし、皮にし、剥製にして飾るのである。しかしそれはけしからんという遊びが流行りつつある。曰く、可哀想だから、曰く、どんぐりを森に撒けばよいのだから、曰く、クマにも家族がいる・・・。
現代日本人は寛容である。底抜けに寛容であると断言しても良いだろう。盗人に追銭という言葉があるが、それを超えた「クマにどんぐり」である。わーいジャパニーズぴーぽーである。
結論に入ろう。
リベラリズムにはどうしようもない限界がある。特にこのイデオロギーを気軽に振りかざす運動においては、ほとんど厨二病である。13歳やそこらのボーイアンドガールがちょけている分には微笑ましいが、オバフォー(over40)やオバフィフ(over50)、アラカンあたりが目をバッキバキにして喚き散らさせる「自由」の中毒性には震え上がる他にない。そして、そんな劇薬に手を出さざるを得ないほどに、「暇」が絶望的であること示唆している。貧乏暇なしという、すなわち物質的な豊さは我々の根源的な瑕疵を剥き出しにしているのだ。