男の散髪は安ければ安い方が良いと思う。
貧乏人にとって出費とは、命を削るということだ。
固定費は1円でも軽い方が良い。髪の毛は女の命かもしれないが、男にとって髪の毛は「ある。」ということが至上命題であって、その形状如何は一定の年齢を過ぎさえすれば割と些細なことだ。社会人の男ともなれば、結局髪型はツーブロックかスキンヘッドに収束していく。それ以外の髪型をしている男は、端的にいえばヤクザか間抜けの2通りしか存在しない。これは覚えておいて欲しい。
「ツーブロック、1mmで。後は適当に2cm伸びた分だけ短くして下さい。」
論理的帰結として、男たちが散髪に求めることは最終的にこの1文になる。そしてオーダーがここまで単純化されると、高級サロンと町の床屋で仕上がりに有意な差が生じることは無い。
後は育毛オプションや頭皮マッサージ、シャンプーがついているかどうかが論点となるが、誰もがいつかはそんなモノは須らく無駄だということに否応なく気づくことになる。児戯に等しい、或いはオカルトに過ぎないのだと。
育毛オプションをつけようが頭皮マッサージをしようが毛は抜けるときには抗えず抜けるものであり、シャンプーなどさっさと家に帰ってやれば宜しい。
そもそも他人と会う前に散髪をして顔面や服に毛のカスが付いてしまうようなリスク・不衛生な行動をすべきではない。社会人として優先順位を見誤っていると断ずるほかない。
故に、男たちはこぞって「散髪の最安値」を探すことになる。
そして結論から申し上げると「千円カット」を選ぶことになるのであるが、一口に千円カットと言っても価格帯は①千円未満、②千円ジャスト、③千数百円と三種に分けられる。
但し③については、活動範囲内に①か②が存在しない場合の消極的な選択肢であるということは申し添えて置きたい。
繰り返すが出費とは命を削ることだからだ。貧乏人に限らない。我々は時間=命を金に換えている。1回当たりの出費は許容範囲であるとしても、散髪は生涯支払わねばならぬ固定費なのであるから、喩え100円でも妥協を許すことは即、死を意味する。
では単純に①を選べば良いのか。そうではない。幸運にも条件の良い千円未満カットに恵まれれば幸いにして、社会人にとってこれを選ぶことは事実上ない。大抵において千円未満カットは「平日、昼間」という条件が付されるからだ。長時間並ぶことになる。参考画像として、近所の千円未満カットをご覧に入れたい。
高齢化社会の日本においては、平日昼間に身柄のあいた年金暮らしの老人が山ほど存在する。しかし日本はインフレでもあり、彼らも出費を抑えたい気持ちは変わらない。すると、彼らはその有り余った時間でこのように千円未満カットに並ぶのだ。
手元にサブマシンガンが握られていたら、躊躇なく撃鉄を引き、日本(ニッポン)社会の為に汚名を被ったであろう。幸か不幸かそのとき私はサブマシンガンを持っていなかった。
1円でも安いに越したことがないとはいえ流石にこの行列に並ぶのは数百円の対価として余りにコスパが悪く、またまともな哺乳類として慚愧に堪えない。
従って、結局②の限りなく千円に近いカットを追究し、その中で一番自分の気に入った店をリピートすることになる。この価格帯であると、美容室と床屋のいずれも俎上にのぼる。
私もかつて千円カットの遊牧民だった。
あの店は待たないが余りにも技術が雑だとか、あの店は丁寧にやってくれるが結構待つだとか、技術も待ち時間も悪くないが店員の気性が荒いだとか(千円カットは治安の関係で店員の機嫌が悪いことがままある)、意外と定宿は見付からないものだ。
ある日、妻に散髪に行ってくると告げて町を歩いた。
そして駅の路地を少し入ったところに赤青白のサインポールの立っている理容室を見つけた。入口に「千円」の張り紙が貼ってあったので迷わず入った。3畳ほどの店内に、店主の男と、娘と思しき女がいた。女はスマホで音楽を流している。
店内には破れて綿の出たスツールが三脚おいてあり、冴えない男たちが自分の番を待っていた。私の番が来た。いかにも古いパイプ椅子に毛が生えたようなバーバー椅子に座る。
「ツーブロック、1mmで。後は適当に2cm伸びた分だけ短くして下さい。」
そして所要時間は10分もかからない。千円カットだとてこの所要時間の短さはそうない。しかし完璧な仕上がりだった。何より千円というラインを完全に守ってくれているところがいい。私は千円カットの最適解に辿り着いたのだった。
家に帰ると、私が散髪に出掛けたと高を括っていた妻が踊っていた。
「さっき出てったところじゃなかったの?! まだ出かけてから20分も経ってないよ」などと言う。
一回一万円もする贅沢に身を浸し、髪を切るといえばチンタラ手を動かしながらペチャクチャ喋り挙句の果てに千円の10倍金を取るという理不尽に慣れ、脳を焼かれているから「まだ」等という甘い言葉が出てくるのだろう。
「千円カットを、ナメるな」
ピシャリとたしなめ旦那としての威厳を示した。