見出し画像

亀有抄

妻と同棲をするようになってから、一度だけ亀有を訪れたことがある。

もう10年ほど前、大学院を中退した私は第二新卒で大手町に在る政府系の金融機関に就職した。そして一人暮らしをするのに選んだ町が亀有だった。
通勤するのに便が良く、お金がなくても過ごしやすい下町。候補はいくつかあったけれど、駅から徒歩5分のところにリノベーションしたばかりのキレイなアパートを見つけた。
家賃は5万5千円、20平米の1R。エレベータはなく4階まで階段で上らなければならないのが地味に面倒だったが、それを差し引いても良い部屋だったと思う。一階は大家が質屋を経営していて、ぽっちゃり専門バーがあった夜な夜な下からにぎやかな声がしていた。
日当たりの良い部屋だった。
土曜の午前中は、図書館で借りてきた小説を読みながら、ベランダに干した一週間分の白いワイシャツがたなびくのを穏やかな気持ちで眺めていた。あの開け放った窓の温かさを今でもたまに夢に見ることがある。
そんな気持ちで日々を送っていたこともあった。

大手町まで千代田線で一本。30分以内で通勤でき、近所には映画館もあれば図書館もある。安いスーパーも高いスーパーもデパートも公園もある。空港へのアクセスは少々面倒だったが、小さいことだ。
駅の高架下にピリカという古い町の中華があった。私はよく天津炒飯を頼んだ。飽きない味だった。ともかく、生活が徒歩圏内で完結していた。

しかし私は自転車を買った。
大学時代の同級生の渥美君が青砥に住んでいたからだ。亀有と青砥は距離的には近いのだが、電車が縦に通っておらず、直接行くには自力の手段が必要だった。
町の自転車屋の前を通ると、定価6万円の自転車が型落ちを理由に半値で売られていた。これは買いだと思った。
渥美君は、根性の無い私と違い、私より良い大学院を卒業して、それから司法試験浪人をして引き籠っていた。たまには身体を動かした方が良いぞ、一緒にジムに行こう。と誘うと、応じてくれた。
大学時代、初めて会った頃の渥美君は物腰柔らかく、無口な男だった。私は本当に性格が歪んでいたので、最初は全然喋らないでニコニコしている渥美君のことを勘定に入れていなかった。しかし優しさにつけ込み授業の出席や試験の答案を要求するようなことばかりして、利用しているようなところがあった。彼は勿論そういうことは分かっていたと思う。しかしある日、私が酒に酔い潰れて大学の校舎内でひっくり返っていると、渥美君は私の為にポカリを買って手渡してくれるのだった。渥美君は優しい男だった。
渥美君は、性格のねじくれた私のような人間と違って正義漢だった。それ故に清濁併せ呑むどころか濁に塗れ優しい言葉一つ遣えなかった私の在り方を肯定なんてしちゃいなかったはずだ。言ってやりたいことの一つや二つはあったろう。けれども、そこは堪えて付き合いを続けてくれた。
そして私が亀有に引っ越してからというもの、二週間に1回、私たちは自転車でちょっと遠くの、安い公民館のジムで話しながら筋トレをして、サイゼリアで1時間半くらい他愛のないことを話しながらお昼を食べる間柄になった。たまにカラオケに行ったり、お店を替えたりしたことはある。だけど基本的には近況報告をするだけだ。

ある夏の暑い日のことを覚えている。
ジムを終えた後、サイゼリアに向かう道に大きな陸橋がかかっている。私たちはその長い長い陸橋を、汗を滴らせながら自転車を漕いで走っていく。その隣を車がすごい勢いで通り過ぎていった。
ママチャリをひいひい言いながら漕いでいる渥美君のジジイみたいなグレーのTシャツの背中に汗がベタっと張り付いているのが見えた。渥美君は太っているのだ。
私は少し自転車を漕ぐのをやめて、渥美君が先に行く、その背中を眺めていた。彼の先には抜けるように真っ青な青空、そこに白い入道雲が浮かんでいた。渥美君が空に向かって自転車を漕いでいた。足元には陽炎、セミの声も聞こえる。
ああなんて素晴らしい景色なんだろうと思った。友達のこんな背中を見てしまったら、きっとこれから先ずっと、何度も何度も思い出してしまうに決まっている。

「あつみーん! 何かさあ! 夏休みって感じだよね~!」

24歳の私が彼の背中に叫んだ。渥美君が叫んで返した。

「何?! 何言ってるか聞こえません!」

「いやー、良いよ、絵になってるね~!」

「良い? 良いんですか? 良いなら、良いですけど!」

汗でびっしょり濡れた身体で、冷房のキンキンに効いたサイゼリアの店内で、寒さを感じるまで茶をしばくのだ。
たったこれだけのことだ。あのときも人生に不満は山積していたけれど、この時間はきっともう二度とない贅沢なんだろう。そのくらい、あのときバカだった私にも容易く想像することができた。

私が亀有で暮らしていたのは、今から思えば僅かに1年半でしかなかった。
当時、私には「この人しかいない」と思う彼女がいた。しかしそれが私の一人相撲に過ぎなくて、あの部屋で独り過ごす時間がただの孤独なものになってしまうのに時間はかからなかった。あの部屋はただ仕事や他人に疲れ、帰り、寝るだけの空間になった。何もない部屋に充満した良くない予感から逃げるために、私はいつも外で誰かと会っていた。
全部気分だけの問題だった。孤独を恐れた私は女友達と一緒に暮らす為、あの部屋を出た。
渥美君は、私が亀有から引っ越すのを手伝ってくれた。しかしその暮らしもすぐにダメになってしまい、結局私はそれから色んな町を転々とした。

彼はその後、司法試験を辞めて会社勤めになった。浪人時代の適当な髪から坊主になり、スーツの似合う立派な社会人になっていた。下町で暮らす真っ当な生活者だ。
遠く住んでいる友だちと会う理由はある。近すぎる場所に住んでいる友だちと会う理由もある。中途半端に遠くて、中途半端に近いような場所に住んでいるのが一番会わない。
それでも半年に1回くらい、適当な理由をつけて一緒に飯を食べていたが、コロナが来て、そういうかそけき関係さえも疎遠になった。

数年ぶりに亀有を訪れ、町を歩いた。路地裏にある場末のピンサロもスナックも、私が通っていた中華のお店も潰れていた。
住んでいたアパートを下から仰ぎ見ると、ベランダには知らない洗濯物がぶら下がっていた。私は、あんな色の服は着ない。窓ガラスをあんな風に開けたりしない。あんな柄のカーテンは選ばない。
家はすぐ他人の顔をするようになる。無視されたような白々しさを覚える。私はあの部屋を気に入っていた。私がキチガイでなければ、あの安い部屋でサラリーマンとしての実力を身に着け、彼女を作り、住宅ローンを組んで手の届くようなマンションを買って、何不自由ない人生を送る途もあったのだろうかと思う。
そうはならなかった。そうなれなかった。今、幸せじゃないわけではない。だけど、その道程で失った多くのモノを数えてしまうことがある。そういう栓の無いことを考えると、心に風が吹き込むようだ。

帰り道、通っていた中華のお店が移転していたのを見つけた。潰れた訳ではなかったのだ。天津炒飯を食べた。あの頃の味だった。


いいなと思ったら応援しよう!

だっちゃん
良かったらサポートをお願いいたします!頂いたサポートが次の記事のモチベーションになります!