生きて行くには信仰が必要なのか。
人は、自分の「個」としての成長に限界を感じたり行き詰まりを覚えたとき、「推し」を追い求めるようになるという。
それは、アニメーションのキャラクターでもアイドルでも俳優でも構わないが、いずれにしても偶像たり得る何者かに対する何かしらの献身をしようとする。
足繁くライブハウスに通い、どうせ聞きもしないCDを買い求め、ファングッズを買い集め、スパチャを送り、その「推し」が自分の影響によって何かしらの変化(それは一層サステナブルとなることも含まれる)することに悦楽を覚える。
私たちにはそういう機構が備わっている。
本来それは自らの配偶者を慈しみ、我が子を愛し、ミームを次世代に引き継ぐために個としての当世利益を至上のものとしない為に備わった仕組みなのだろう。
つまり代替的に欲求を満たしているに過ぎない。
推しは本来自分とは何の関係もない独立した存在であることが大抵であるので、推しの行動原理にファンは含まれていない。勝手に恋愛をするし、勝手に仕事を辞めるし、勝手に私が嫌う何かを好きになったりする。
そういうことで推しが実は自分の影響下になんてなかったということに気付いたとき、ファンである私は失望し、自分の人生における本来的な問題が何一つ根治していなかったことに気付く。
しかし人生のリソースは有限なので、そうなったときは遅いことも、まま、ある。
私たちは「推し」という偶像を理性によって蹴り飛ばし、自分の人生を本質的に満足せしめる何か、について真剣に考えなければいけない。
しかしさりはさりとて、自分の人生の本質について真剣に向き合った結果、「この人生は詰んでいる。」という確信にいたることもある。
ところで、ジャイナ教という宗教には自害を許すサンターラという儀式があり、インドでは法的にも認められている。
実行には幾つか条件が設けられており、その内の一つに「病気で回復の見込みがない場合」というものがあるのだが、これには精神障害に拠る不自由も該当しているようだ。
つまり私たちに卑近な例で言えば、発達障害やひいては適応障害・うつなどによって社会生活がままならなくなり、生活保護や障がい者手帳を頂戴して年金で暮らすような者が該当するのだろう。
SNSでは、「人生がどうにもならなくなったら、生活保護でも貰っちゃえばいいじゃない!」という言説が喧伝されることがよくある。しかし私はこれに与さない。
人は他人との関りの中でしか幸福になることは出来ないからだ。自分が社会にとって、せめて家族にとって、多少であったとしても求められ有用でありたいと願う。無為徒食のまま単に呼吸をしていればそれでヨシ、と心の底から思える人間は存在しない。いてもごく稀な才能の持ち主だけだ。
だがサンターラに至っては、無為徒食の者も死によって社会から祝福を受けることができる。社会の側にとっても弱者によっていたずらにリソースを食われない仕組みは悪くない。
サンターラは要するに社会から祝福を受けた安楽死であるので、人によっては受け入れ難いかもしれない。
そういう者には出家という手がある。
ジャイナ教の出家者には禁戒が存在する。具体的には、生きものを傷つけないこと、虚偽のことばを口にしないこと、他人のものを取らないこと、性的行為をいっさい行わないこと、何ものも所有しないことだ。
だが、彼らは禁戒を守ったというよりも、弱者であるが故に結果として「こうなってしまった。」人々とも言える。
つまり自分の人生の本質について真剣に向き合った結果、「この人生は詰んでいる。」という確信に至った者。その現実逃避と体の良い言い訳(我々は気高く生きているのだ!)として利用されていたのが実際のところだろう。
人は人生の本質の満足にいたった後は安楽を求める。でなければ富裕な寺に生臭坊主は存在しない。しかし人生が詰んでいることに確信を至ったときは、自分の身を無用に苦行に晒す献身をしてまで、自分が世界から祝福を受けているという虚構を信じようとする。
かつてジャイナ教は貧者を救済する為の宗教だった。しかし当地インドでも近代的な価値観によってかつての儀式は一応、減ってきてはいるようだ。
現代ではどうだ。私たちの献身に値する信仰は何だ。愛し愛される者を持たない貧者は、耐えず推しを探し、貢ぎ、失望することを繰り返すしかないのか。
私は、私の大事な者でさえその苦しみを安楽な死によってしか贖えないと考える短絡的な者であるので、今はその答えを持たない。今でも「失望しながらにして生きて」救われる術があるのか、探している。