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皇帝の使者を待ち続ける

先月、宅地建物取引士の試験を受けてきた。その合否が本日発表されたのだが、勿論、不合格だった。

法律資格業界には、「宅建に短期で受からない人間は宅建以上の資格に挑戦してはいけない」という言い伝えがある。
資格試験自体は毎年行われているのだから、仮に不合格だったとしても、また来年受けることはできるだろう。
しかし現実として人生は有限なのだ。どんなに頑張っても試験に受からない、或いは無用に長い時間を必要とするような者が難関試験に拘泥すると人生を拗らせてしまう。
勉強というのはそれ自体が尊い訳ではなく、勉強したモノが結実して初めて価値となる。結実しなければ、それはただTVゲームに熱中して時間を浪費したのと変わらない。寧ろただいたずらにストレスを貯め、受験費用その他の出費がかかる分、余程タチが悪い。

その時間と労力を他のことに費やすことが出来れば、どれだけ人生が華やぐかしれない。好きな本を読み、好きな映画を観、大切な人とご機嫌で時間を過ごし、家事もしっかりできる。「丁寧な暮らし」ができる。
だから無能な者は、難関試験に拘泥してはならない。拘泥すればするほど、サンクコストの虜となってどんどん人生は取り返しのつかない事態に陥ってしまう。

だから、「宅建に短期で受からない人間は宅建以上の資格に挑戦してはいけない」。
自分に「資格を努力する資格があるか」。その試金石となる。具体的には、無勉強から三か月と言われている。それだけあれば誰でも受かる、と言われている。実際、大手不動産会社に内定が決まった学生は大抵においてその時点から学習を始めるわけであるが、まあ大体受かる。そういう試験だ。

それで、私は本日、不合格の烙印を刻んで来た。無能者の消えない烙印だ。
実際に私が勉強をした期間は丁度45日間だったのだが、そもそも私の学生時代の専攻は法律であったので、日数が三か月に満たないことが言い訳にはならないだろう。

枠一杯に机に向かった、隙間時間も無駄にしなかった、休日も休まなかった。その結果がこれだ。失望しないわけがない。
その半年前には社会保険労務士の勉強を始め、これも勿論落ちている。試験としての上位下位の先後が逆になってしまったが、宅建の結果を見ればさもありなん。

思い返せば試験というものには良い思い出がない。私はそういう与えられたハードルで毎回躓いてきた。要するに勉強そのものが向いていないのだ。試験運に見放されていることもあるだろう。

M-1グランプリは元々、才能の無いお笑い芸人を諦めさせる為の大会だった。将棋の奨励会には年齢制限がある。法科大学院を卒業後、司法試験に挑戦できるのは5回までだ。そういうものが必要なくらい、人間は目標に見切りをつけ、損切りするのが難しい。
「何歳まで夢を追ったって良いじゃないか、そんなの勝手じゃないか!」ではない。才能のない者の夢追いは緩慢な自殺に等しい。徹頭徹尾自分の為の自殺に他人を巻き込むなという話だ。

フランツ・カフカに「皇帝の使者」という短篇小説がある。
ある男のところへ皇帝の使者は出発したというお告げがある。ところが使者はいつまで経っても到着しない。使者はその男が死んだ後になって、漸く到着する。

夢を待つ間が幸せだったなんて欺瞞だ。当世利益を得なければ、男が報われたとは言えない。しかしまた、使者が全くやってこないと思いながら時間を打っ棄るには、人生は余りにも長すぎる。

今待っている使者は来ないかもしれない。でも、だったら、私たちに出来ることは、節操なく他の使者を待つしかないのだろう。
早慶を諦めたら司法試験、司法試験を諦めたら大企業、大企業を諦めたら公務員、公務員を諦めたら社労士、社労士を諦めたら宅建、宅建を諦め、試験に類するものを諦めたのなら出世、出世を諦めたら新人賞。新人賞を諦めたら、諦めたら、諦めたら……
これから、一体何人の使者が見付かるだろうか。その中に、本当に私の所へやってくる使者はいるのだろうか。私はいつまで待ち続けることに耐えられるんだろうか。
その先を私は知らない。

今日も皇帝の使者が私の元に現れることはなかった。

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だっちゃん
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