レフト イズ ライト 密室蒸発事件5
-蒸発02-
「やめろーーーーー!」
すごい形相をして岩のような男性が向かってくる。
「ひっ」
恐怖で思わず声が漏れる。
「おい、岩男、謝ったのか?」
神野さんが言うと、
「ええ、それはもう何回も謝りましたよ」
しゃがんで小さくなった岩男は頭に手をやって恥ずかしそうにしている。沙織さんの足元には桃が転がっている。
「シェフから戴いたおいしい桃だったのに......」
三根さんが惜しそうな声で言う。
「え、シェフから?」
樺沢さんが驚いて素っ頓狂な声を上げても、三根さんは落ち着いている。
「ええ、シェフの御実家、山梨なんですよ」
知らないの?という具合に語尾が上がっている。ホテル内の人のつながりというのは意外さに満ちている。ハウスキーパーとシェフが桃のやり取りをする仲ということは、社員食堂で席が一緒になったりするのだろうか。ぼくのいまのシフトは、ハウスキーパーやレストラン部門とは昼休憩が重なることがほとんどない。顔を合わせることが多いのは、フロントと保安部、そして図書館、バックオフィスの人くらいだ。そう言えば、オーナーの顔さえ見たことがない。
「で、どうして一緒にいるんですか?」
ぼくが三根さんに訊くと、何かに躓いて転んだところにちょうど沙織さんが居合わせて、助け起こしてくれたのだと言う。
「転んだ時に左手を突いたの。すごく手が痛いから様子を観るためにベンチに座っておこうと思ったら、しばらく一緒にいてくれるって沙織ちゃんが言ってくれて。それで、桃をもらったという話をしたら、剥くのは大変でしょうですって。それじゃあ二人で食べてしまいましょうって、渡したの。私に危害を加えるなんてとんでもない、ねえ?」
沙織さんは気まずそうに頷いている。
「それにこの人が来たから桃を落としたんじゃないんです。ナイフが使いづらくって」
沙織さんは岩男にちらっと眼をやってから、ナイフに目を落とす。ナイフにはホテルのロゴは見当たらない。つまり、三根さんのナイフか沙織さんのナイフということになる。そして、桃を剥くことを提案した以上は、三根さんのナイフということで間違いない。もちろん三根さんは左利きなので、彼女が持っているナイフも左利き用なのだろう。
「そうそう。沙織ちゃん、左利きなんだけど、家では右利き用の包丁を使っているんですって」
三根さんがそう言うので、父である坂下様も沙織さんも左利きである以上、ぼくには沙織さんの母が右利きだということがわかった。ふだん右利き用の道具を使っていると、自分が左利きであっても、却って左利き用の道具が使いづらいことがある。左利きにとってはもどかしい気持ちもあるけれど、こればかりは感覚的なものなので仕方がない。それで、左利き用のナイフをあれこれ持ち直しているあいだに桃を落としたのだろうことが推察できた。
残ったのは、沙織さんが残したメモの問題だけだ。ここで問い詰めるのもなんだし、と思案していると、もう左手はそんなに痛くないし、桃は洗って食べればいいから、林檎の皮むき器を試してみると三根さんが言って、立ち上がった。
「それじゃあね」
三根さんが手を振ると、他の三人が小さく頭を下げたのに、樺沢さんは立ち上がって、大きく手を振っていた。
大人三人に中学生が川のほとりで神妙に話す様子を思い浮かべてみる。変だ。傍目にどう見えるだろう。そもそもあんなメモを書いた理由、ドアの仕掛けなどを問い詰めたところで、意味はない。沙織さんと坂下様の関係をどうにかしないといけないのだ。このままホテルに戻るのは、二人にとってはよくない気がする。沙織さんは、どこか人目を気にしなくていい落ち着ける場所で気持ちを吐露するほうがいいだろう。誰にだ? 樺沢さん? 神野さん? ありえない。じゃ、ぼくか? そこであることに気付いた。
「あの、神野さん」
「なんだ」
うっとうしそうな視線を神野さんが向けてくる。
「えーと、フロントの仕事をほっといているんですけど、いいんでしょうか」
「なんだ、そんなことか。お前は史上最高のホテリエを目指していると聞いたぞ」
神野さんはそれだけ言うと、また思案するように横を向いてしまった。でも、と思っていると、樺沢さんが耳打ちをしてくれる。
「ホテルを出る前に宇羽川くんも一緒に外に探しに行くって、先輩がインカムで言ってくれてました」
それを聞いてほっとする。職場放棄で怒られないで済む。それから神野さんの舌打ちと、お前は優しいから、どうせ外まで来ると思っただけだという呟きが聞こえた。そうなると、とたんに史上最高のホテリエを目指しているという言葉が強く意識されてくる。そうだ、史上最高のホテリエなら、ホテルの外までもゲストにサーヴィスするはずだ。実際にリムジンのドライバーやツアーガイドは、ホテルの外でも仕事をするじゃないか。ぼくもホテリエなんだから、外で仕事をすることになんら後ろめたい気持ちを持つ必要はないんだ。そう思うと、背筋が伸びた。それにしても、神野さんと言い、支配人と言い、坂下様もそうだけど、怒らない。もしかして、気分がいいからという理由じゃないのか? もしかしたらだけど、いい人なのだろうか。人に寛容なのだろうか。わからない。
神野さんの先導で、ぼくらは代々木公園に向かった。宇田川の上を井の頭通りが越えるところで、右に曲がろうとすると、先頭を行く神野さんは顎でまっすぐだと示す。それからもう一回顎で指す方を見ると、交番がある。そうか、若い女性を取り囲むカラフルな制服姿の男性陣という怪しい一向に交番で声をかけられないよう避けているんだ。神野さんは女性だが、ホテリエの制服を着ていると、遠目には男性に見える。ぼくたちはそのまま宇田川を遡り、井の頭通りをくぐった。沙織さんは一番後ろだ。先頭を歩きながら神野さんが、ぼくに小声で話しかけてくる。
「そう言えば、とっくに部屋を出ているというようなことを言っていたな。あれはどういうことだ」
「スリッパが二組、ドアの近くにあったので、部屋には誰もいないなと思いました。もちろん、坂下様が一日に一つ使って、今日は二つ目を使ったという可能性もあります。そうすると、沙織さんの部屋にはもう一組のスリッパがあるはずですが、それもなかった」
「それは気付いていた」
すぐ後ろにいた樺沢さんはわからないというように、疑問を口にする。
「沙織さんはスリッパを持ち帰ろうとして、トランクに入れたのかもしれないですよね?」
「お前は未使用のスリッパがあるのに、わざわざ使ったものを持ち帰るのか?」
最後の「兄貴じゃあるまいし」という声は小さかった。神野さんが「それで?」というように、ぼくに顎で先を促す。
「気圧の差で、あのドアを樺沢さんでさえ開けられなかったので、沙織さんに開けられるはずはありません。だから、気圧の差が生じる前に出かけたと考えたんです」
「ああそうか。簡単なことだったな」
しばらく歩いたところで、代々木八幡近くに評判のプリン屋さんがあると言って、頬を上気させた岩男に、「それじゃあ」と四人分の調達を頼むと、残りの三人は角を曲がった。宇田川が作った谷に沿って公園の擁壁がある。擁壁を右に見ながら歩いていくと、入り口に辿り着く。急な登りの後、芝生まで進むと、沙織さんはショルダーバッグから小ぶりなレジャーシートを取り出した。
「ホテルのお庭でピクニックをしたいと思って」
父親と、ということだろう。ん? もしかして、カトラリーも自分で用意しているということか。そうなると、三根さんがさっき川沿いのベンチで桃を食べようとしていたのは、沙織さんの持っている二人分のフォークを使ってということになる。三根さんもシェフからカトラリーを受け取ってはいたのだろうか。それによっては、三根さんはふだんからナイフを持ち歩いていることになる。いや、三根さんがふだんナイフを持ち歩いているかどうかなんて、ぼくには関係のないことだ。これは胸にしまっておこう。今は沙織さんのことだ。それにしても、訊きにくい。けど、神野さんが訊くとも思えない。ぼくは深呼吸してから意を決して言った。
「メモのことだけれど」
声がかすれてしまった。しばしの沈黙の後、沙織さんは語り出した。第一志望の中学に入ってから勉強についていけなくなって、自信がなくなって、なにもかもうまくいかなくなったこと。学校に行けなくなって、しばらくしてやめたこと。周りの人が普通に学校に行って楽しそうにしているのに、自分には夢も目標も何もないこと。母と離婚した後の父は忙しいと言って話を聞いてくれないこと、そして、自分が学校に戻るのを待っていること。学校に行くことが普通で、普通のことしか求めていないこと。
「もう死にたいって思って」
何も旅行先でと思ったが、中学生が死にたい気持ちにそんなことは関係ないのだろう。ぼくは何か言わないとと思ったけれど、何を言っても上っ面なことか、世間的に正しいことしか言えそうにない。どうしよう、だれか、だれか沙織さんに声をかけてくれないかと思っていると、神野さんが口を開いた。
「あんたさ」
ゲストにあんたとは相変わらずだが、保安要員は直接ゲストを接遇する部署ではないので、沙織さんも勘弁してくれるだろう、どうか勘弁してくださいと思いつつ、ぼくも話を聞く。
「死にたい死にたいって言ってるけどさ。そんな気ないでしょ」
沙織さんの反応を待つまでもなく、神野さんは強い口調で続けていく。
「ほんとに死ぬ奴ってさ、そんなこと言わないで死ぬの。昨日まで何ともない様子だったのにさ、笑顔でまたねって言ってたのにさ、次の日に死んでるわけ。なんなの? って思ったよ。周りの人間がどれだけ苦しむかって考えなかったのか。お前のおかげでお前の親は離婚するし、兄弟は友達と別れて転校するし、担任は教員辞めるし、クラスの人間は暗いままで、ジョークを言うだけで不謹慎に思われるし、筋肉痛死ぬわーとかも気を使って言えなくなるし、卒業アルバムだって閉じたまんまだよ。それなのに死んだら文句も言えないだろ。ずるいだろ。生きてるうちに言いたいことあるんだったら言えよ」
神野さんは途中から自分のことを話しているようだった。ぼくは、なにか言葉をかけたいけれど、声がうまく出ない。
「あんたさ。死にたいんじゃなくて、生きてるのがつらいんだろ、そうだろ。死にたいと、生きているのがつらいはぜんっぜん違うんだよ。言われる方の身にもなってみろよ。死にたいなんて言われたら、寿命が縮むぞ。生きるのがつらいなら、ちゃんとそう言えよ。相手に伝わるようにまっすぐな言葉で言えよ。死ぬとか相手を怖がらせる言葉で自分の気持ちをごまかすんじゃねえよ」
沙織さんは両膝を腕で抱えながら 下を向いて肩を震わせている。
「おーい」
岩男の陽気な声が聞こえて、しばらくすると、どすんどすんという震動まで伝わってきた。樺沢さんが走ってくる。
「ふいー 濃厚プリン四人分 買ってまいりましたあ」
空気が、変わっていく......いいんだろうか?
「え、なんですか?」
状況を察して空気を変えようとしたのか、まったくわかっていないのか、このひとは。なんなんだ。
三人の大人は濃厚プリンに手を伸ばす。沙織さんも神野さんが「ん」と言って突き出した濃厚プリンを顔を上げないまま受け取った。
沙織さんがカップの底に残ったカラメルを飲もうと、カップを高く持ち上げる。その途端、袖がずるっと落ちて腕が露わになった。綺麗な手首だった。長袖にしているのは単に寒かったのだろう。顔色も悪くない。ロビーが寒かったのかもしれない。
しばらくして落ち着いた沙織さんの話によると、坂下様が部屋を出る時にドアを開けて見送ったそうだ。そして、閉めるふりをして少し開けておいた。その後、部屋の内側からドアストッパーをした。それで、麻田くんが三時の位置にあるドアストッパーに触れることになったのだろう。そして、メモを書いてテーブルに置くと、ショルダーバッグを部屋から取って来て、部屋を出た。フロントのシステムで観ている限り、その時間に坂下様が部屋を出たという認識になる。父親がメモを見てフロントに知らせれば、すぐに捜索隊が結成されると思ったそうだ。それで部屋で寝ているということを装ったらしい。そんなことをしなくても、空気清浄機のせいで時間稼ぎはなされていたのだけど。
帰り道、ぼくは大きな声で言ってみた。
「大金持ちで大きな家に住んで大好きな人と家族になって健康で、あと自由で安心なら、ずっと生きていたいって思いますよね。つまり条件次第ということですかね。ぼくも今はそのうちのいくつかしかないけど、他のものも手に入れるために努力しようって思っていて。要するに、死ぬのをあきらめて、無理矢理にでも生きるっていうほうに身をおいてしまえばいいんですよね? そうしたらどうやって生きるかだけ考えるから」
ぼくがそう言うと、沙織さんは小さく頷いていた。
神野さんは「大金持ちで大きな家。話が下世話になったな」と冷たい目で言い放つ。沙織さんと樺沢さんが声をあげて笑った。
「でも、それもいいと思います」
沙織さんは言ってくれた。
「野生動物はそんな難しいこと考えないけどなあ」と上から岩のような声が聞こえてくる。たしかに動物は自殺なんてことは考えないだろう。動物は今この瞬間、精いっぱい生きることに集中している。
「あの。これ」
沙織さんはショルダーバッグからナイフを取り出すと、おずおずと神野さんに手渡した。沙織さんの手前、声は出さなかったけれど、これには本当に驚いた。しかし、このナイフにはホテルのロゴが付いていない。沙織さんは家からナイフを持ち出していたのだ。
「ナイフは次回の宿泊まで預かっておく」
神野さんは冷静だ。そして、営業担当でもないのに予約の強制までしている。これは、いいアイディアと認めずにはいられない。
ホテルの部屋で父娘が向かい合っている。
「私のせいでいつも疲れている」
沙織さんは俯いている。
「おまえのせいじゃないよ。仕事が忙しいのは、わたしがお前をきちんと育てたいと思ってしていることだ。けど、お前のことを気遣っているつもりで、気遣っていなかったね。最近は面と向かって話をすることも、一緒にご飯を食べることもなくなって。それでもお前が何かふさぎ込んでいることには気づいていたんだ。でも、ふだんは話を聞く時間も持てなくて」
坂下様は声が詰まっているようで、苦しそうだ。
「それで、お前が小さいころに私と二人で泊まったこのホテルに一緒に泊まろうと思いついたんだ。あいつはなにかの用事があって行けないって言うから、二人で泊まりに来た。憶えているだろう?」
沙織さんは小さく頷いている。
「二人の思い出のホテルで一緒の時間を過ごしているうちに話ができたらと思っていたんだ」
「お父さん。そんなの言ってくれなきゃわかんない」
沙織さんは涙声だ。
「そうだよな、ごめんな」
坂下様も涙を流して、沙織さんを抱きしめた。
「おい、行くぞ。いつまで見ている」
神野さんの小さな声は、ふだんよりも冷たくは聞こえなかった。
(了)
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