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レフト イズ ライト 密室蒸発事件3

-密室03-


「鍵は開いているんだよな」
 神野さんがぼくに改めて言う。
「間違いありません。だから、中央制御室でコントロールしているエアコンを作動させてください」
「涼しくなって落ち着きますもんね」
 相変わらずしゃがんでいる樺沢さんが見当違いのことを言っている。中にいるかもしれない沙織さんが涼しくなってもドアが開くわけではないし、部屋の外にいるぼくたちが涼しくなることもない。
「換気扇を回すと近くの内開きの扉が自然に開いたり、逆に普段の力で閉めづらくなることがあるでしょう。今回は外開きの扉なので、逆に開けづらくなっているんです。内側にいる人がものすごい力で引っ張っているのと同じです」
「けど、空気清浄機は消すように麻田くんに言いましたし、バスルームの換気扇が消してあることは、私が確認しましたよ」
 三根さんは、首をかしげている。
「そうか 空気清浄機で同じ状態が作られたということだな」
 さすが神野さんは理解が早い。そして、麻田くんが新人だから信用していない。
「はい。たぶん空気清浄機のすぐ近くで窓が細く開いているんでしょう。そこからどんどん排気がされて、部屋の空気が薄くなっている、つまり陰圧になっているということでしょう」
 そこまで言うと、樺沢さんがわけがわからないという顔をしているのに、ぼくは気が付いた。
「掃除機で袋の中にある空気を吸い取ってしまうと、袋がぺしゃんこになります。つまり空気がなくなる状態です」
 ぼくは追加の説明をした。
「それじゃあ、バスルームの換気扇も回せないですねえ」
 樺沢さんの疑問ももっともだが、それは心配ない。バスルームの扉は内開きになっているので、開けるのは簡単だ。換気扇を切れば、しばらくして力を入れずに閉めることもできる。そう説明すると、樺沢さんの顔が明るくなった。どうやらわかったようだ。ぼくは自分で説明しておいて、中に人がいたら、空気が足りなくなるのではないかと心配になった。しかし、ゲストのいる前で神野さんに相談することもできない。その時、麻田くんの一言でぼくは心底ほっとした。
「ふーん。感染症の患者を隔離する陰圧室と同じなんですね」
 何気ない言葉だったけれど、ぼくも陰圧室というものがあることを思い出した。患者が長期間いるくらいなのだから、沙織さんが部屋にいたとしても、害はないようだ。そう言えば、高山病というのは空気が薄い状態で起こるんだった。けれど、いくらなんでもホテルの部屋でそんなに陰圧になりはしないだろう。せいぜい内外の気圧差でドアが開かなくなるくらいだろうと考えていると、そろそろ五分経ったことに思い至った。エアコンが作動して、部屋にどれだけかわからないが、空気を送り込んでいるはずだ。
「ドアノブを引いてみてください」
 ぼくが言うと、よっこらしょという感じで樺沢さんが立ち上がる。そして、ぐわしぃとドアノブを握りしめて、引く。
「お、ちょっと開いた」
 岩男はさすが怪力だ。
「長くても三十分もあれば、我々でも開くでしょう」
ぼくはもう一度「三十分」と言ってゲストに目をやる。「は長いですよね」
 後ろを向いて考え直そうとすると、先ほど庭でお祝いをしていたゲストたちの光景が思い出された。
なるほど、そうか。こんなに簡単な答えが目の前にあったとは。そう思って、目の前にある窓を開ける。
「すみませんが、もう一回開けてみてください。たぶん開くと思います」
 みんなが怪訝そうな顔でこちらを見る。さっきから一分も経っていないのだから当然だ。
「お願いします」
 重ねて言うと、
「わかりました」
 岩男が再びドアノブに手をかけて引く。「うおおおお」はじめはゆっくり。そして一気に「うわ」開いた。勢いあまって樺沢さんは尻もちをついた。その瞬間。風が後方からひゅおおっと吹いてきた。みんなが、なんだと振り返っても特に何もない。窓があるだけだ。
「大丈夫ですか」
「ううん、気にしないでください」
 岩男が立ち上がって服の埃を払うと、神野さんは樺沢さんに即座に指示を出す。
「保安担当は扉をチェックだ」
「はい」
 岩男が扉を上から下まで触っている。
「異常なしですね、これと言って、なにも」
 岩男がそう言うと、三根さんがポケットからスリッパを三足出して、神野さんたちやぼくにも渡してくれた。なんて気が利く人なんだろう。
「部屋に入ります」
 神野さんはゲストに断りを入れると、履き替えたスリッパで慎重に部屋に足を踏み入れていく。ぼくもドア近くに残された二足のスリッパを踏まないように、四番目に部屋に入る。やはり空気清浄機が動いている。音も大きい。近づいて<強>になっていることを確かめた後、停止させる。
「あれ?さっき消したはずなのに おかしいな」
 後から入った麻田くんが呟く。思った通り空気清浄機の排気口の近くでは細く窓が開いている。
「どういうことだ?」
 神野さんが麻田くんに近づいている。さすがにゲストの前で刃の付いたベルトを振り回したりはしないだろうけど、絶対ということはない。ぼくは慌てて早口で説明を始めた。
「右利き用の空気清浄機だったんですよ。ほらここのつまみを見てください。真ん中に<弱>があって左に<強>、右に回すと<切>になっています。左利き用だと反対ですよね? ハウスキーパーの二人が部屋に入った時、最初は<弱>になっていて、それで麻田くんがこのホテルのことだから、空気清浄機も左利き用だと思って思わず左に回してしまったんじゃないですか?」
「それで消したつもりが消えてなかったと」

空気清浄機のつまみ

 神野さんが麻田くんを冷たい目で見る。麻田くんはたじろいでいる。
「だって、レフトホテルですよ?左に回したから、消したと考えたんです」
 麻田くんが頭に手をやって恥ずかしそうにぼくに向かって言う。
「けど、右利き用だった」
 冷たい目をした神野さんが重ねて言う。さっきよりも麻田くんに近寄っている。
「消したと思って、静かになって完全に止まるまでは時間がかかるなあとは思ったんですよ、けど待っていられません。一部屋で十五分という目安があるし。それに空気清浄機を回していたくらいだから、掃除の匂いも気になると思って、部屋を出る前に、窓を細く開けたんです」
「そこがちょうど空気清浄機の排出口が向いているところだったということですね」
 ぼくは空気清浄機と窓の位置関係を確かめながら言った。
「そうみたいです」
 神野さんが麻田くんにさらに近づいて
「だから空気清浄機は部屋の空気を吸い込み続け、窓の外にせっせと濾過した空気を吐き出して、部屋は陰圧になった。つまり空気が薄く、気圧が低くなった。それで開かなくなったということか。すべて右利き用の空気清浄機のせいか」
 そうではないだろうという口調で詰問する。
「僕がわるいんですかね」
 みんなが一斉に麻田くんに視線を送る。
「そうだ。兄貴がわるい」
 神野さんがそう言うと、ぼくだけでなく、樺沢さんと三根さんも驚愕して、二人を見比べ始めた。兄貴? 麻田くんって、神野さんのお兄さん? このホテルではホテリエのプライヴァシーを守るために全員がビジネスネームで仕事をしているから、名字でわからないのは当たり前だけど......よくよく顔を見ると、似ているような気もしてくる。性別が違うので声はまるで違うが、二人とも小柄で色白という点は似ている。
「麻田くんはわるくない。レフト イズ ライト。左利きは正しい」
 急に声が聞こえて、ぎょっとする。知らない間に、ぼくらの後ろに支配人がいた。口ひげに抑えた色のスーツ。バックオフィスで仕事をする人は、ぼくたちのように目立つ色の制服を着ない。ぼくは支配人が近づいていることに気付かなかった。なぜだろう。たぶん兄妹のやりとりに驚いていたからだろうけれど......保留だ。そのうちわかるかもしれない。
 支配人が口にしたレフト イズ ライトはこのホテルのモットーで金科玉条と言ってもいいものだ。レフトは左、ライトは英語でRIGHTのスペルだから右という意味と正しいという意味がある。けれど、左利きの人間からすると、右が正しいというのは余りに横暴だ。だから、このホテルでは左が、左利きが正しいという意味で使っている。その言葉を聞いた麻田くんは明らかに安心した様子だ。麻田くんは怒られないで運がよかった。
「支配人、甘いですよ」
 そう言う神野さんを、支配人は手で遮って続ける。
「それで、どうやって開けたのか種明かしをみんなにしてはどうかな? 宇羽川くん」
 みんなの視線が今度はぼくに向けられる。麻田くんは話を逸らす機会だとばかりに、ぼくに唾を飛ばさんばかりに近づいてくる。
「そうそう、どういうことなんです? 空気清浄機が陰圧を作って、中央制御室でエアコンから空気を出させて陰圧を緩くしていったのはわかった。けど、時間がかかると言ったわりに、二回目はすぐに開きましたね。説明してください」
「答はあれです」
 ぼくは後ろの窓を指さした。
「電車を降りようと思っても、満員のホームには降りられないでしょう。ホームにいる人をまず改札から外に出してやるんです。そうするとホームが空くので、降りられる。それと同じで、ドアを引こうとしても、ドアが押す空気はどこかに移動しないといけない。空気の逃げ場を作ってやる必要があったんです」
「押しのける代わりにスペースを作るわけですか。なるほど」
 麻田くんが二回頷いて納得していると、神野さんも同じように二回頷いている。二回頷くのは、この兄妹の文化のようだ。謎解きが終わると、支配人がゲストに頭を下げる。
「今回は誠に申し訳ございません」
「いえ、おもしろいものを観ることができました。この出来事を小説に書いても構いませんか?」
「小説ですか?」
「私は小説家なんです」
「それは存じております。そうですね。それはもうなんなりと。存分にお書きください」
「よかった。このホテルに泊まった甲斐がありましたよ」
 坂下様のこのセリフを聞いて、部屋に入れなかったのに怒らないでいた理由がぼくにもわかった。

 引き上げる前に、念のため部屋を一回り見ておくことにする。台車の上には二人分のルームサーヴィスのトレイが置いてある。通常は、臭いがこもるのを避けるため、食べ終えたトレイは台車ごと部屋の外に出しておく。ただ、他のゲストに汚れた食器を見られたくないとのことで、部屋に置き去りにしている人も時折いる。坂下様はそのタイプで、だから、自分が部屋にいる間は空気清浄機を回していたのだろうか。トレイにはレモンの皮があるくらいで、食べ残しはなく綺麗なものだ。カトラリー類がきちんと揃えて置かれている。フォーク、スプーン、ナイフ。もう一方にはフォーク、スプーン。カトラリーと皿の数からみて、野菜を食べているようだし、メインはカレーとパスタだろうか。ゲストが汚れた食器類を見られたくない可能性を思い出して、台車から離れることにした。念のため、ぼくは静かに三回ノックをしてからベッドルームを覗いてみた。一方のベッドは綺麗に使っているらしく、これと言って変わりはない。もう一方は掛け布団が乱雑に剥いであって、二つの枕は離れたところに落ちている。どうやら床に投げ捨てられたようだ。そして、やはり沙織さんの姿は見当たらない。ふとベッドサイドのテーブルに目をやると、ホテルのロゴが書かれたメモ用紙が一枚台紙から破り取られて、置かれていた。そこには、こう書かれていた。
―死にたい―



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