短編「怪獣ハチ公」
5月21日の午後1時前、半袖の女性が花束を持って墓地を歩いている。
俺は美咲の少し高く それでいて細くない声が好きなので、音声の連絡にこだわっている。もう待ち合せの時間を過ぎているので、端末で話してみることにした
「いま外苑前」
「待ってる」
一言でも嬉しい。顔がにんまりしてしまう。外苑前か いつもは半蔵門線で一本なのに、今日はわざわざ乗り換えて銀座線で来るらしい。彼女と待ち合せだというのに、俺の脇の下には既に汗染みができている。暑さに慣れようと、井の頭線のデハ1050弱冷房車に乗り、降りたところから広いガラス窓を通してハチ公前の広場を見下ろして、時間になったからようやくこの夏の暑苦しい空気のハチ公の前まで降りてきたというのに、
美咲は俺のことよりも犬が好きで、絶対にハチ公の前でしか待ち合わせをしない。ハチ公前なんてよそ者が来るところで恥ずかしいし うるさいし混んでいるし することもないので、俺としてはタワーレコードがいいのだが、 ハチ公前には外国人もいれば、高校生もいるし、これからみんなで博物館に向かうという50代くらいの女性が数人いて大声で上野に行くわよーと叫んでいる。上野で待ち合せればいいものを
突然キャーと叫び声が聞こえたので、なんだとそっちを見ると、叫んだ女性が俺の後ろにいる何かを見ているのがわかった。
俺は振り返った。ハチ公が立ち上がってヒグマくらいに大きくなっていた。銅像でもないし、生きていたときのような毛並みで もはや小さな怪獣だ。頭の中では逃げた方がいいと声が繰り返しているが、俺の身体は動かない。なぜか怖さも感じない ハチ公は人懐っこくて吠えたりかんだりしないと聞いていたからなのか 単にすごい と思っていたからなのか わからない。俺が口を開けて見上げていると、怪獣になったハチ公は身体と比べて小さくなった台から慎重に降りた。そして交番の方に歩いていく 俺はその場から怪獣ハチ公を見送った。改札から出てきた人たちが叫んだり 映画の撮影と思ったのか撮影したり 逃げ惑ってぶつかったりしている 混雑する駅前は阿鼻叫喚とはこういうことかを目の前で見せていた。怪獣ハチ公はさかんに首を振ってあたりを見回していたが、青信号が目に入ったらしく、交差点を疾走、うお、なんだ、きゃーという声をあげる人間たちの間をするんするんと走り抜け そのまま文化村通りを東急本店の跡地の方へとひた走っていった。
俺はすぐに端末で動画系アプリの投稿を探した
怪獣ハチ公に遭遇した人たちがさっそく動画をあげている
怪獣ハチ公は、いまはなき東急本店の裏手にたどり着いたようだ。怪獣ハチ公はそこで立ち止まった。
-(街歩キング)あるはずの飼い主の上野先生の自宅は既になかった-
というテロップまで早打ちされている。
そうそう 上野先生の帰りを待っている間にハチ公は死んでしまったんだ
おおおおおーん ふいに吠える声が響いた。
うおっ 声があまりにデカいので、アプリからだけではなく、歩いて4分くらいは離れている元ハチ公像前にいる俺のところまでこの渋谷の喧騒を抜けて 直接遠吠えが聞こえてきた。
怪獣ハチ公は鼻をひくつかせては 地面や空気を嗅いでいる
そして
-(街歩キング)まさに怪獣並みの鼻をきかせて、西にひた走った-
これは上野先生を探しているんだろうな 100年前の匂いでも嗅げるのか すごいな
-(街歩キング)ドローンで追いかけるよー-
見ているとすぐにドローンからの画像に切り替わった。許可取っていないよな?
ドローンが背中を映す怪獣ハチ公はライブ会場やラブホテルのあるエリアの手前で右に折れる ひた走ったと書いてあったが、実際は歩いているようだ そしてバスや配達のトラックやバイクを器用によけて走っていく 上り坂の手前に行列のできている店があり、そこで一旦立ち止まって鼻をひくつかせているが、再び歩き出した 長い上り坂なので少し速度を落としたようだが、坂の上に到達して渋谷区と目黒区の境を越えると、ぎょっとする車には目もくれず、一目散に坂を下った そこには東京大学の駒場キャンパスがある。上野先生の仕事場だ。そして 俺と美咲が去年まで通ったところでもある。
短文系のアプリを見ると
「(鴨居)上野先生って東大の教授だったの?」
「(東大下暮らし)農学部の教授。当時は駒場キャンパスにあった」
「(鴨居)ども」
井の頭線の線路脇にある小さな裏門を一跨ぎした怪獣ハチ公は 木々の生い茂った薄暗いエリアを抜けて キャンパスの中心に向かっていく 周りでは学生がきゃー ぎゃーと怪獣に負けないような叫び声をあげて逃げ惑っている ダンスの練習をしている学生たちが固まっているが、そんなことには構わず、怪獣ハチ公は生協の前に陣取って 腹ばいになってしまった
俺は美咲に連絡をした
「まだ?さっきハチ公がさ」
「知ってる。今日は行けないかも」
凛とした声でつれない返事だ。
「まじか 一応タワレコで待ってる」
「うん」
なんだか鼻息が荒いような音だった。美咲も怪獣ハチ公の動画を観ているのかもしれない。いや、勝手知ったる駒場キャンパスに行くつもりなのかもしれない。それにしても、ハチ公前で待ち合わせでこういうことが起こっているというのに、俺を心配する言葉一つかけない 可哀そうな俺
アプリ上では ドローンが捉えた怪獣ハチ公を背景にして 憶測やデマやうんちくが行き交っている
-(犬頭巾)1934年に初代ハチ公像が作られて、除幕式にはハチも参列したらしい--(街歩キング)生前に? すごいね-
-(犬頭巾)1944年に出征しました-
-(鴨居)軍用犬ってことか-
-(犬頭巾)足りない金属を補うために、銅像を集めて、溶かして再利用したんです。それを当時の人は出征したと言っていました-
-(鴨居)いまの怪獣ハチ公は二代目?-
-(犬頭巾)1948年に二代目が作られました。初代を作った彫刻家の子どもが二代目を作りました-
-(街歩キング)初代が初代、二代目が二代目を作ったんだね。なんかすごいね-
-(犬頭巾)ハチが生まれた秋田県大館の駅前にもハチ公像があります-
-(鴨居)そっちも怪獣化してたりして-
調べると、大館のハチ公像は1935年に設置されたが、これも戦時中の金属回収で出征。いま立っているものは1987年に再建された二代目で、大館駅前広場から秋田犬の里という施設の前に移動した。渋谷も大舘も似たような境遇だ。東大の本郷キャンパス、上野先生の生誕地である三重県にも銅像はあるらしい。今のところ秋田も含めて特に変わったことはないようだ。渋谷から二駅の青山霊園にはハチ公の墓があるが、墓石から声が聞こえたということもなさそうだ。渋谷のハチ公にだけ作用した何かがあったということだろう それとも渋谷という場所じゃないといけない理由があったとか
犬の魂というのはどういうものなんだろう 仏教では犬は救われないと聞いたことがある。そもそも人間道と畜生道は世界が異なる。上野先生が西方浄土に行ったとして、ハチ公がいる畜生道からは行けないということだ。そうなるとハチ公は忠犬だから天国に行っただろうに、銅像に戻ってきたんだろうか けど、この昼の時間だから上野先生が駅にいないと気づいたんだろう
-(鴨居)ハチ公も駅で待ってないでここに来ればよかったのに-
-(犬頭巾)いつもは家で待っていたので-
-(鴨居)忠犬じゃないじゃん-
-(東大下暮らし)上野先生は自宅から歩いて駒場に通っていた-
-(鴨居)電車じゃなかったの?-
-(東大下暮らし)それは出張の時だけ-
-(鉄オタ28号)当時のダイヤでは頻繁に電車が来ないから一駅なら歩いた方が早い-
-(鴨居)じゃハチ公が毎日送り迎えしてたのは嘘か-
-(犬頭巾)長く帰らないのは渋谷駅からの出張だとハチ公は思って上野先生の死後 渋谷駅に通っていたんです-
-(鴨居)ども-
午後2時、ようやく警察がキャンパスの外を包囲するが、学内には立ち入れない。
「(東大下暮らし)安田講堂を忘れるな、だな」
たしか50年以上前、学生運動の時に学生と機動隊がやりあったと先生が言っていた。今は小学生のいじめでも警察に届け出るものだが、やはり大学となると聖域なのだろうか。
-(街歩キング)ドローン終わり 注意されちゃったよ-
画像が切り替わった。その後も人の目線では動画の配信をしてくれるようだ。
「美咲ー どこ?」
「駒場」
「やっぱり」
「あ ハチが動いたから切るね」
いつまで待てばいいんだろう 俺はタワレコを出て、急な坂を上った パルコの前に出ると、右に曲がり公園通りを上がった 代々木第二体育館への石段を上がり、回廊に出て歩く この辺りは渋谷では一番空が広い。そして人が少ない。幸い何のライブもないようで、午後4時だが誰も行列をしていなかった。駅から離れたので、待ち合せのやり直しになったら急ぐ必要はあるが、それよりも人いきれから離れて落ち着きたかった。日傘を開いて水筒から冷たい麦茶をゴクゴクと飲む。一息ついて渋谷を眺める。ハチ公が生きていたのは戦前だから、このあたりは陸軍練兵場だったはずだ。今は平和だ。忠君愛国の時代でなければ、ハチ公も忠犬などと持ち上げられなかったかもしれない。俺は駒場の様子をチェックしながら BiSHの音楽を聴いて考えごとをした 高校生だった4年前にここでBiSHのライブのために独りで並んでいた どうしてもグッズを手に入れたいと思って、第一体育館が開場する4時間くらい前に来たはずだ
後ろに並んだのが美咲だった BiSHの話をしていれば時間があっという間に過ぎたが、一人ぼっちの受験生同士ということで、その後もライブに一緒に行くようになった そして同じ東大の駒場キャンパスに通うことがわかってからは キャンパスで毎日会うようになった 今日は付き合って3周年だからお祝いしようと約束してたのに、
「(犬頭巾)ハチは一人で寂しかったろうな」
「(東大下暮らし)俺も寂しい」
「(鴨居)犬でも飼えば?」
犬でも飼えばって、わかってないな。犬じゃ埋められないんだよ。と言うか、俺はその犬に嫉妬しているくらいなんだ。犬なんて飼ったら、美咲は毎日犬にかかりっきりで俺のことなんか放っておくんじゃないか 今だって怪獣ハチ公のせいで俺は待ちぼうけだ もう待つのは疲れた
犬は世話が大変だ。猫はいい。去勢をしてしまえば、ほとんどの猫はあのンウニャーーという赤ん坊のようにも聞こえるなサカリの付いた声を出さない。散歩もいらない。猫は家に居つくので脱走もしない。飼い主がいようがいまいがおかまいなしだ。そんなことを美咲に言ったことがある。
「猫はね。野良でもいいの。うちのマンションの敷地にも来るし。時々撫でさせてくれるんだ。けど、犬はそうじゃないでしょ?今時野良犬なんていないし」
「いても怖い」
「だから、飼うなら犬。尽くしてくれるし、愛を返してくれる」
「そうかなあ」
「そうだよ」
きれいごとだね、とは言えなかった。それに、もしかしたらではあるけれど、ハチ公はそういう稀な例だったのかもしれないと今日になって思った
ハチ公のことを調べているといろいろな情報が出てくる。吠えたのを見たことがないとか、食いしん坊だったとか、上野先生はハチ公と一緒にご飯を食べていたとか、上野先生を待つためではなくて駅に行くと餌をくれる人がいるから通っていたんだとか、汚い犬だったとか、頭を撫でさせてくれて嬉しかったと祖母が言っていたとか
5月21日 怪獣ハチ公 で検索すると真偽不明の情報もたくさん出てくる。
2023年5月21日 ハチ公のしっぽが動いているのを見た
2022年5月21日 ハチ公の向きがいつもと違うような気がする
この日にはハチ公に何かが起こるようだ 去年も怪獣化まであと一押しだったのかもしれない さすがに90年も溜まったものがあるとあれだけ大きくなるし吠えるよな けど、街を破壊しないのはハチ公らしい。ニュースでは何か言っていないかとラジオに切り替えるとハチ公の生誕100周年ということで特別番組を放送しているようだ。そしてハチ公のテーマソングだという「もう待たなくていいんだよ」が流れた。
午後6時、 ようやく強烈な日差しはなくなった。影に入っているからだろうか 映像で見る怪獣ハチ公は心なしか寂しそうだ
「(犬頭巾)小さくなってる」
「(東大下暮らし)現世にとどまるのはパワーがいるからだろうね」
「(犬頭巾)たしかに怪獣ってそんなイメージ」
俺は予約していた宮益坂のイタリアンで、ひとり早い夕飯を食べることにした。地下への階段を降りて 扉を開けるとカウンターの中にいた店長があれ?一人?という顔をしたが、フラれたわけではないので堂々としていられる。スタッフに促されてカウンター席に着くと、店長が近づいてきた
「記念日のケーキも用意していますよ。約束にはまだ時間がありますが、後から来られるんですか?」
「いえ、もう待つのやめるんです」
店長はけげんな顔をしたが、テーブル席で呼ぶ声があったので、そちらに行ってしまった。時間は早いが、外は暑いからだろう だんだん客が入り始めている
ハチ公は生きている間に10年待ちぼうけだった。銅像になって90年くらい。ハチ公の気持ちを考えたら、駅前で上野先生を待たせるのは考えものだろう
美咲はペットを飼えないマンションに住んでいる。二人でペットを飼えるマンションに住もう 前から言おうと思っていたが、勇気が出なかった 今年二人とも就職の内定が出て 都内の勤務ということも決まったので、ようやく言える環境が整った。それでも不安があった だけど、言わないといけない、言うぞ、言え俺。頑張れ。
午後7時、まぶしそうな照明に照らされて 年を取った男性がゆっくりと怪獣ハチ公に近づいていく さすがに当時のハチ公を知っている人間ではないだろう 放送局が流している関係者の話によると、男性は当時渋谷駅に勤めていた駅員の息子だそうだ。
-(街歩キング)駅員の格好をした男性が近づいています-
「(鉄オタ28号)あれは当時の省線の制服だ」
「(鴨居)省線?」
「(鉄オタ28号)JRの前の 国鉄の前の 運輸省の前の 運輸通信省の前の 鉄道省の時代の鉄道のこと」
「(鴨居)ども」
-(街歩キング)駅員が焼き鳥?を差し出しているようだ-
「(犬頭巾)餌をあげてた人の匂いがあれば安心して食べるかも」
「(犬頭巾)ハチ公は何でも食べたけど、焼き鳥も好物だったらしい」
「(犬頭巾)焼き鳥の串が喉に刺さって死んだという噂があったくらい」
「(東大下暮らし)そんな最後じゃ悔いも残るな」
-(街歩キング)いま怪獣ハチ公が焼き鳥を食べた-
殺すつもりか?
「(犬頭巾)今の大きさだと串なんて小骨が刺さったくらいだろうね」
「(鴨居)それじゃ死なないじゃん」
「(犬頭巾)そもそも殺す必要ないと思いますよ」
「(鴨居)なんで?迷惑じゃん」
「(犬頭巾)怪獣ハチ公は誰も殺してないし、街も破壊していない。人をよけて走っていたし、門を跨いで入って来てる。殺す道理がありません」
「(鴨居)いや存在がすでに迷惑 お前らだって思ってんだろ 言わないだけだろ」
「(東大下暮らし)思ってても言わない それが常識 ハゲにハゲって言わないだろ」
「(鴨居)俺言う」
「(東大下暮らし)最低だな お前の偏差値25で馬鹿って言われたら嫌だろ」
「(鴨居)俺へーき 偏差値30だし」
「(鉄オタ28号)喧嘩はやめて怪獣ハチ公を見守ろう」
「(鴨居)そうか 殺さないで他の怪獣が来たら戦ってもらうのもありだ」
それじゃ軍用犬だ
-(街歩キング)怪獣ハチ公はおいしそうに焼き鳥10本を平らげた-
-(街歩キング)怪獣ハチ公が立ち上がった-
どうやら腹が空いたので動かなかったらしい。90年も何も食べていなければ、腹はすくよなあ
上野先生が亡くなった後、ハチ公は三日間は何も食べなかったらしい。何か気づいていたのだろうか その後もハチ公は 一緒に飼われていたジョン、エスと渋谷駅まで迎えに出ていたらしい。その二頭は銅像がないのか 調べると、ないらしい。ハチ公はその後、日本橋小伝馬町、それから浅草に引き取られたらしいが、浅草から散歩を抜け出して渋谷駅まで行くこともあったそうだ。そのあとに上野先生宅に出入りしていた植木職人の小林氏に引き取られる。この人の自宅は富ケ谷なので、ハチ公は上野先生の自宅がある大向に寄ってから渋谷駅に通っていたと言うが、家から駅まで20分くらいだろうか 朝に出かけて、夕方にも出かけていたらしい。二回も?焼き鳥は好きだったらしいけど、焼き鳥の屋台が出ない日にも通っていたし 餌に興味を示さない日もあったということだから、餌目当てで通っていたということではなさそうだ。
怪獣ハチ公はこれからどうするんだ 家もないし 上野先生もいない 富ヶ谷に行くのか
-(街歩キング)怪獣ハチ公は元来た道をゆっくり戻っていく-
信号を守って歩道を歩くのはハチ公らしさが出ている
怪獣ハチ公は坂を上がって渋谷区に戻ってくると山手通りを横切った 山手通り沿いに右に歩くと富ヶ谷だが、小林宅には行かないらしい
そういうことか 俺は手の空いているスタッフにケーキを箱に入れてくれるよう頼んだ。店長の誤解を解くために来週にでも二人で来よう。俺は店の階段を上がって地上に出た。端末を見ると、怪獣ハチ公は疲れたんだろう 30分かけてようやく109のところまで来ていた。宮益坂の上からも群衆に遠巻きに囲まれた怪獣ハチ公が見えた。俺は表参道から銀座線で一駅分を乗ることにした。
-(街歩キング)渋谷駅で銅像に戻るのか?-
怪獣ハチ公は渋谷駅の高架下を通り過ぎて そのまま宮益坂を上がっていく
-(街歩キング)今度は青山学院大学か?-
怪獣ハチ公と美咲が近づいてきているようだ。
美咲は群衆の渦中にいるんだろうか 怪我をしなければいいけど さらに小さくなった怪獣ハチ公は青山学院大学前の歩道を歩いているようだ。さすがにそっち側は警察が距離をとって歩いているだけで、一般人はいない。歩道橋には端末を持った人がわんさかいる。柵から溢れそうになっていて危ない。撮影どころじゃないだろう
「(犬頭巾)わかった青山霊園だ」
「(鴨居)何かあんの?」
「(犬頭巾)上野先生夫妻のお墓があります」
「(鴨居)そういうオチか つまんねえ」
他の人も気付いたようだ 生身の身体に戻ったことで、記憶がリセットしたのか、混乱したのか 最初は上野先生が生きていると思ったんだろう。それで駒場キャンパスに行った。けど、死んで魂になったハチ公は上野先生が亡くなっていたことを知ったはずだ。それを思い出したんだ。それが焼き鳥を食べたくらいの時間なんだろう それであんなに落ち込んで、歩みも遅くなったんだ もう食べ物にも興味を示さなかったことが腑に落ちる
怪獣ハチ公は表参道を通り過ぎて 外苑西通りで右に曲がった この先に青山霊園がある。青山霊園にはハチ公の墓もあるが、調べると、遺体は剥製になったということがわかった。今は上野駅にほど近い国立科学博物館にあるらしいから、上野先生とは離れ離れだ 遺骨は骨格標本にされて、1945年の空襲で焼失した。こっちも離れ離れになっている それで、銅像に憑依したんだ 本郷キャンパスにも上野先生の生誕地である三重県にもハチ公の銅像がある けど、そこには上野先生は眠っていないからな。
怪獣ハチ公が一つ目の交差点を右に曲がると、もう霊園内だ。
先回りした俺は上野先生とハチ公の墓に手を合わせた。
-(街歩キング)怪獣ハチ公が青山霊園に到着 ミイラ撮りがミイラにならないように気を付けます-
動画を映している人の息遣いが聞こえないし画面が揺れないので、怪獣ハチ公はだんだん歩みが遅くなっているようだ。俺のところにもちらほらと見物客がやってきた。やがて警官が来て俺たちは追い払われてしまった。怪獣ハチ公は人に危害を加えないからいたっていいのにな 俺は群衆に押し潰されそうになりそうなので、墓が見えない位置まで距離を取ることにした。端末の画面では、上野先生夫妻の墓の前にすっくと立った怪獣ハチ公がだいぶ小さくなっている。墓の前にある献花が映し出される。
「(東大下暮らし)上野先生の命日だから献花した」
「(犬頭巾)私もハチ公のほうに献花した」
怪獣ハチ公は上野先生の墓に鼻を近づけて くぅぅんと鳴くと、そのまま腹ばいになった。尻尾は丸まっている。大好きな人と離れ離れはなあ 駅でずっと待つんじゃなくて、 怪獣になってまでここに来たのはそういうことなんだろう 一緒にいたかったんだろう それは俺もおなじだ
「(東大下暮らし)一緒になりたいんだ」
「(犬頭巾)うん」
怪獣ハチ公を遠巻きに眺める人たちの中に美咲を見つける。よお、と腕を大きく振ると、美咲が振り向いて 通る声で「遅ーい」と言った。
ええ?待ってたのこっちなんですけどー
怪獣ハチ公は眠ってしまったようだ。動きもないので、俺たちは青山一丁目から半蔵門線に乗り、水天宮の彼女の部屋に向かった。俺たちは部屋でケーキを食べながら 画像のなかの怪獣ハチ公を見守った もうだいぶ小さくなってると言う彼女はなんだか嬉しそうだ。毎日彼女のこんな表情を観られるなら、
命日が終わると銅像に戻る気がするという大方の推測通りにハチ公は銅像になった。一週間後、駅から遠いというのに、青山霊園のハチ公像の前で待ち合わせてから、ランチに行くことになった。
先週よりさらに暑いのに、一駅だから歩こうと言うので、宮益坂に着いたときには二人とも汗だくだった。電話で希望を伝えた通りカウンターから離れた少し目立たない席で、俺は美咲と向かい合って座っている。
「内定ももらったし、えーと 一緒に住もう ペットを飼えるマンションで。」
返事が怖かったのに、美咲は意外なことを言う
「遅ーい。やっとリアルで言えたかー」
「え?」
まさか寝言で言ってた?
「私が犬好きだから、先週のデートは上野先生の命日に合わせたんでしょ?献花も誘ってくれればよかったのに。気づいてたよ。こないだ私だと思って犬頭巾さんにプロポーズしてた東大下暮らしくんて君でしょ。ふふん」
と美咲は見透かすように言った。
ち ちが
*「怪獣8号」というアニメがあるので、インスパイアされて書きました。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?