アンラーニング
いつからだろうか。
見るものすべてが新鮮で、触るものすべてが新鮮で、聴くものが新鮮だったころを人生でみんなとおってきている。
そんな時期が気づけばなくなっていた。
子どものころ、小さかったときほど、すべてが新鮮でワクワクしていた。世界には知らないことばかりで、1つひとつすべてのことが新鮮でときめいた。
でも、いつからか、その新鮮に感じる感覚は減っていった。それは悲しいことではなく、もしかしたら、それは一つの成長なのかもしれない。
改めて、何でこうなるんだろう?と考えてみたら、色々な理由が考えられそうだなと思った。
・経験してきたものが増えてきて、未知なものの絶対数が減ってきたから
・失敗することが恥ずかしいことという感覚をもちあわせるようになってきてしまったから
・知らないことがカッコ悪いみたいな空気に支配されるようになってきてしまったから
・ただただ新鮮に感じる感覚が失われてしまったから
・求めるものが高くなってしまったから
などなど、人それぞれ色んな理由がありそう。
個人的には、子どもの頃の方が毎日が楽しかった気がする。ここは過去の思い出などもあるだろうから、みんながみんなそうとは言えないが。
子どものときというのは、単純に発達段階が低いということもあるし、もちろん、単純な比較はできないが、朝をむかえたとき少しブルーな状態みたいなのは少なかったような感覚がある。
知らないと知っているには圧倒的な大きな壁がある。知ってしまったらもう、知らなかった頃には戻れない。時間は巻き戻せない。
すべての経験が、知ってしまったことになるわけだからもう知らなかった頃には戻れなくなる。やっぱり経験値が積み上がると、新鮮さは減るもの。とはいえ、その新鮮さがあると人生に潤いをもたらすには、目先の新鮮さを追ってしまうこともある。
でも、一時的な刺激を得たところで、麻薬のようなもので、根本的な解決にはならないし、その劇薬に対して依存してしまうかもしれない。
だからこそ、大人になればなるほど、息をするように当たり前に「アンラーニング」できるというOSをつくっていくことが必要なのかもしれない。
しかしそれは並大抵のことではない。
大人の学びの中でアンラーニングという言葉がちょくちょく使われる。アンラーニングとは、自分の中にできてしまった既存の枠組みを批判的に見てみて、新たに学び直すこと。
一度経験すると、その経験の枠組みで人は判断を下してしまう。新しいものとして自分の中に入っていかない。そうなると結局、自分の血肉にはならない。活性化されない。
もうどうしたって、見るものすべてが新鮮だった頃には戻れない。でも、近しいことであっても、自分の中に新たな意味合いをもって取り込もうとすることはできる。それが日々のマンネリ化を刺激するカンフル剤にもなりうるのではないか。
とはいえ、アンラーニングって簡単じゃない。
ある意味自分の中に心地よく根付いている枠組みを批判的にみて、一旦、崩して新たな意味合いを見出だすわけだから。
・メタ認知する力
・内省する力
・勇気
このあたりは必要だ。ある意味、チャレンジングなことだし、脳にとって心地いい昨日と同じ今日とは反するわけだから。自分の見えていない、見ていないところにもアプローチすることも大事になる。そうして、自己認識の領域を広げることが必要だ。
ただ、痛みを伴うことはあるが、こうしたアンラーニングをするということが自分のからだに習慣化していくと見える世界が大きく変わっていくように感じる。
子どもの頃の何もしらなかったころに近い新鮮さと、経験に裏打ちされた安定感のハイブリッドで生きていくことができるのかもしれない。新鮮さと安心さの二律背反的な要素を持ち合わせていくことができ続けたら最強な気もする。
アンラーニング。
それは自分の見ている世界に彩りをもたらしてくれるメガネもなのかもしれない。