ラグビーとの付き合い②

そんな感じで秋〜冬は毎週末ラグビー観戦をしていたのだが、80年代半ばから世界のラグビー界は大きく動こうとしていた、らしい。
①でも少し触れたが、当時の15人制ラグビーの世界は、北半球のホームユニオンと言われるイングランド、ウェールズ、スコットランド、アイルランド(イギリス領の北アイルランドとアイルランド共和国の合同チーム)にフランスを加えた5カ国と南半球のニュージーランド、オーストラリアの計7カ国で全ての事が決められ、それ以外の国はその他大勢としてしか認識されていなかった。(繰り返しになるが、南アフリカはアパルトヘイトの影響で排除されていた。)

そのため日本が7ヶ国と試合を組む事は非常に難易度が高く、組んだとしても日本は公式のキャップ対象試合であるにも関わらず、相手はキャップ対象試合にならない、つまり練習試合扱いであった。

80年代は日本ではJリーグもまだ開始されていない状況ではあったが、世界ではサッカーはプロスポーツとして認知され、既に巨額の金が動く一台スポーツビジネスになっていたのに対し、ラグビーは主要7ヶ国を中心にアマチュアリズムの堅持というか墨守を謳っていた。従って到底プロ化やエンターテイメント性の追求など出来ない状態であったが、遠征に参加する選手や怪我をした選手の補償等の問題は既に顕在化しており、主要国の中でも特にアマチュアリズムの堅持を主張していたホームユニオンでさえ解決をしないといけない問題として認識をしていた。

その上当時既にプロ化されていたリーグラグビー(13人制)への有力選手の流出が相次いでおり、それに危機感を持ったニュージーランドとオーストラリアからワールドカップの開催が提議された。当初欧州の5ヶ国は否定的だったが、お試しでということで初めてみたら思いの外盛り上がり、今やサッカーワールドカップ、オリンピックに次ぐ大きなスポーツイベントに成長した。2019年の日本開催でも日本代表の活躍と相まって日本国中が熱狂したのは記憶に新しい。

話は第一回ラグビーワールドカップの時代に戻すと、当初渋っていた欧州5ヶ国も含めた主要7ヶ国に加えて、日本を含めた計16ヶ国で1987年に第1回ラグビーワールドカップがニュージーランドで開催され、開催国ニュージーランドが優勝した。
尚、この当時は参加国は招待制で現在の様な予選は行われず、日本は勝利することなく、ワールドカップを終えることになった。

私はこの第一回ラグビーワールドカップをテレビで観て、それまで非常に遠い存在であった世界のラグビーを身近に感じる事が出来たこと、第2回ワールドカップは招待ではなく予選が行われ、その予選が日本で開催されると聞いて興奮を抑えきれなかった。

7ヶ国以外ではあるとはいえ、それまで見たこともなかったトンガ、サモア(当時は西サモア)といった南太平洋の強豪国や当時の東アジアの強国であった韓国、台湾との試合が日本でまとめて見ることができる事はそれまででは考えられない事であった。
オールブラックス(言うまでもなくニュージーランド代表)が試合前に行うハカは当時でも世界的に有名で、ラグビーを知らない人たちでも知っていたぐらいであったが、トンガやサモアにも試合前のウォークライがあり、彼らの大柄な体と相まって大変な迫力であった。それを秩父宮ラグビー場の様なコンパクトな球技専用スタジアムで見ることができたことは本当に貴重な体験であった。

①でも述べたように大学ラグビーも隆盛を極めている状況で、日本でもこれで野球に続くチームスポーツとしてラグビー人気が定着したと思ったのだが、それは大きく異なっていた。


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