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頼朝と馬
猛暑の期間は街道走りを控えています。次に走りに出かけられるのは、9月末ぐらいでしょうか。それでも、日が沈んでから近所をうろうろ走って、気を紛らせています。
しばらくは走りネタが無いので、これまで走った中で気になったこと、考えたことなどを書いていきたいと思います。あくまで素人の感想や想像ということで、信憑性は保証できませんが。
頼朝の馬に関する伝承
鎌倉街道を走ると、当然鎌倉時代の伝承や史跡に出会うことが多々あります。その中でも多いと思ったのが、頼朝と馬に関する伝承です。以下のようなものがありました。
池月(大田区 千束八幡神社)
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頼朝軍が洗足池の湖畔に宿営した際、1頭の野馬が現れ、それを捕らえて頼朝に献上された。池月(いけづき)、または生き物を食らうような荒々しさから生食(いけずき)と命名された。後に佐々木高綱に与えられ、同じく頼朝から賜った別の名馬磨墨(するすみ)に跨がった梶原景季との宇治川の先陣争いを行い池月が勝利した。
これは有名な話ですが、少し違和感を感じます。名馬2頭とも自身のものとせず家臣に惜しげも無く与えたのは、頼朝が乗りこなせないので家臣がもらった?
芦毛塚(世田谷区 下馬)
![](https://assets.st-note.com/img/1723678123626-PxTtEqyyE8.jpg?width=1200)
頼朝が芦毛の馬に乗って、この近くの蛇崩川を通ったとき、何かに驚いて沢に落ちて死んだ馬をこの地に埋葬した。このときの経験から、奥州征伐の帰路にこの近くを通ったとき、乗馬のままだと危険なので馬を引いて通るように命じた。このことから、この辺りを馬引沢と呼ぶようになり、上馬、下馬の地名の元になったとのこと。
蛇崩川というぐらいなので崩れやすい地形だったとは思いますが、急峻な山道でもないのに下馬を命じられ、しぶしぶ馬を引いている坂東武士の姿を想像し可笑しさを感じてしまいます。
駒が橋(横浜市港北区 下田町)
頼朝がこの地を通るとき、馬ごと川に入り橋の代わりに渡ったことから駒が橋と呼ばれるようになった。または頼朝の馬が逃げ出して橋のところで止まったからという説もある。
馬で川を渡るのは日常のことのように思われるのですが、伝承になるからには何かドタバタな一幕があったのでしょうか。
馬入橋(茅ヶ崎)
![](https://assets.st-note.com/img/1723678066671-Z07wSjii5u.jpg?width=1200)
相模川の下流を馬入川と呼ばれ、国道1号線に掛かる橋の名前になっている。橋供養式に参列した頼朝の乗る馬が暴れ出し、川に入り込んで落馬したという伝承が馬入川の由来である。これが原因で頼朝が亡くなったという説もある。
鎌倉街道から外れますが、頼朝と馬の伝承に思いを巡らせたとき、真っ先に浮かぶのが本伝説です。落馬が原因で死ぬというのは、坂東武士にとっては恥ずべきことだったと思われますが(実際には多かったと思いますが)、本伝説が広まっているのは、頼朝の騎馬の危なっかしさは周知の事実だった?
いずれも史実というよりは伝説の類いなのですが、これらの伝承からは、頼朝は馬と相性が悪い、はっきり言うと、騎馬が得意では無かったことが背景にあるように感じました。実際はどうだったのか、頼朝の経歴を見てみます。
頼朝の騎馬について
頼朝の史実としての経歴概略は下記の通りです。
1147年4月 源義朝の三男として尾張国熱田に生まれる(京都で生まれた説もあり)
1159年12月(13歳) 平治の乱に参戦するが敗れる
1160年3月(14歳) 伊豆国蛭ヶ島に流される
1177年頃(31歳) 北条政子と結婚
1180年8月(34歳) 挙兵
1184年1月(38歳) 宇治川の戦いで木曽義仲を討つ
1185年3月(39歳) 壇ノ浦の戦いで平氏滅亡
1189年7〜9月(43歳) 奥州征伐
1190年11月(44歳) 上洛
1192年7月(46歳) 征夷大将軍になる
1195年2月(49歳) 二度目の上洛
1199年1月(53歳) 没(落馬が原因との説あり)
13歳まで京都で武士として成長し官職も得ているので、源氏の嫡子としての基本的な素養はこの間で習得したと思われます。
その後、父の義朝とともに平治の乱に参戦し敗れ、生涯一族の供養をして過ごすことを約束し死罪を免れ、伊豆国に流されました。流刑先では、読経を欠かさず、源氏一門の弔いを行いながら僧のように過ごしていたようです。平家方の監視下におかれたこの20年間は、源氏の再興に繋がるような行動は許されないと思うので、騎馬を含め武士としての鍛錬は出来なかったと想像します。
ただ、鎌倉幕府の公式の歴史書である吾妻鏡には、頼朝が巻狩り(馬で鹿などの獲物を囲い込み射止める)に参加していたり、弓の腕前を称える記載があります。
石橋山の戦いにおいて、頼朝が馬を振り返られて百発百中の弓の腕を見せ、自ら戦った。矢は突き通って沢山の人を殺した。
敗走するとき数珠を落とし、この数珠が巻狩りに参加した際、敵方の武士が見知ったものであることを心配するが味方が拾って喜んだ。
また、同時代の慈円により書かれた愚管抄にも、巻狩りのとき頼朝が馬を駆って大鹿の角を掴んで捕らえた記述があるようです。
これらを信じると武芸にも秀でていたことになるのですが、吾妻鏡も愚管抄も鎌倉幕府を肯定する立場の書なので、頼朝を英雄視しがちであり、話半分に捉えるべきと思います。
やはり、武芸に関して学んだのは13歳の平治の乱までで、それも京都での修行であり、良くても京武士レベルだったのでないかと想像します。
以降も数々の戦いがありますが、頼朝が前線に立つことはなく、采配でもって板東武士たちを動かし、武家政権を確立します。
坂東武士の騎馬について
一方、頼朝に従った坂東武士たちの武芸、特に騎馬について考えてみます。
平家物語に、富士川の戦いの際、平維盛から坂東武士の斉藤実盛に「そちほどの射手は関東八か国にどのくらいいるのか」と問われ、答えます。
私程度の弓使いは関東8箇国にはいくらでもおります。 坂東で大矢使いと言われる者なら、15束より短い弓は引きません。 屈強な者たちによる5~6人張りの強い弓を使います。 このような精兵たちならば、鎧の2、3両はたやすく射貫いてしまいます。
馬に乗れば落ちることを知らず、悪所を馳けても馬を転ばしません。
合戦となれば親さえ討たれ、子さえも討たれても、死屍累々の山を乗り越えて戦います。
この話を聞いた平家軍の兵たちはみなおびえて、水鳥の飛び立つ音に驚き敗走に繋がります。
当時の武士の合戦での戦い方は、騎馬で弓を射ることでした。坂東でこれに長けた武士が多く生まれた理由を考察します。
まず、リソースとして馬の産地が領内に多くあったということだと考えます。平安時代の延喜式に、朝廷が管理していた馬の牧場「牧(まき)」の記載があり、当時の馬の産地を推測できます。これによると、関東周辺と九州に集中しており、逆に畿内周辺には存在していません。馬を育てるのに必要な草原が火山の近くに多いことを考えると、上記の地域的な偏りは納得できると思います。
馬の潤沢な生産と経済力により、馬産地の近くに強い武将が現るのは歴史の流れのようで、将門、信玄、島津も同様に騎兵の兵力でもって周囲を圧倒していました(鉄砲が入ってきてからこの法則は変わりますが)。
また、関東の土壌や地形が、武士を育てる環境としても適していたとも考えています。江戸時代から面々と続けられた土壌改良や灌漑設備により、関東各地で農業が可能になっていますが、当時は火山性の関東ローム層に覆われ、水の少ない台地が広がる不毛地帯だったようです。そんな原野を常日頃から馬で駈けまわることにより、騎馬の技術を磨いていったのではないでしょうか。都市化や稲作が進んだ畿内では得られない鍛錬の場だったのではないかと想像します。
今回、各地の鎌倉街道を走り、常々思っていたのは、距離に対する感覚の違いです。現在の交通機関を使っても遠いと感じる関東圏内を、まるで近所のように行き来している様が不思議でした。これも、子供のころから馬で駆け巡っていると思えば納得できます。
こんなことを考えて出来た坂東武士のイメージは、砂漠を馬で駆け巡り圧倒的な強さで帝国を築いたモンゴルの騎馬民族に近いものでした。義経が生き延びてチンギス・カンになった伝説も、そんなイメージから生まれたのかもしれません。
頼朝と坂東武士
そんな坂東武士と比較すると、頼朝の騎馬は危なっかしく頼りないものだったのかもしれません。ただ、吾妻鏡など公の記録には武芸に秀でていたと書かれたので、徐々にそうで無い頼朝の姿が語られることが無くなったが、冒頭のような各地の伝承の中に真実の姿が隠れているのではないか、と想像しました。
そうだとしても、坂東武士が頼朝を見下していたとは思えないし、そのような痕跡は無さそうです。おそらく、武人としての力量より、自分たちが出来ない役割を期待し、その期待通りの役割を担ってもらったことに恩義を感じていたと考えています。その役割は、自分たちが結束するための旗頭であったり、調停役であったり、所領を安堵してもらえる拠り所だったと考えます。
頼朝は、自らの兵力を持たずに政権を樹立した希有の政治家だった。それ故、あっけなく実権を北条氏に奪われてしまうのですが、歴史の転換を果たした功績は改めて大きいと思いました。
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参考書籍
「街道をゆく 三浦半島記」司馬遼太郎
「馬が動かした日本史」蒲池明弘
「源氏と坂東武士」野口実