鎌倉街道 下道を走る 保土ヶ谷~丸子橋
下道の続きとして、保土ヶ谷から丸子橋まで走ります。
この区間は川沿いではなく、帷子川、鶴見川、多摩川に挟まれた丘陵地の尾根を上り下りしながら進むので、坂好きにはたまりません。また、中原街道に合流するまでは、幹線道路になっていないので古道っぽさが残っていることも期待できます。
今回も芳賀善次郎「旧鎌倉街道探索の旅Ⅱ 中道・下道編」を参考にしました。
保土ヶ谷~菊名 10.2km
帷子川と鶴見川に挟まれた丘陵地の尾根を進みます。微妙に蛇行しているのは尾根に沿って進んでいるため。
7時頃保土ヶ谷駅に到着し、スタートする。
旧東海道から離れて北に進むと、すぐに古東海道の道標があった。古代東海道ではなく、江戸時代に街道が整備される以前の東海道であることを示しているようだ。
帷子川を渡る。もともとは、この近くの天王町駅付近に街道が通り、帷子宿があったが、保土ヶ谷宿が旧東海道側に整備され、住民含めて移転し今の帷子町が出来たとのこと。だから元の場所が「古町」なのかも。
16号線を越えて、多摩丘陵の南端を上り始める。なかなかの坂でうれしくなる。
尾根道なので住宅の合間から眺望が良い。ここからでも富士山と大山がはっきり見える。大山詣に江戸の住民がこぞって出かけたのもわかる。
丘陵地を上ると、あとはひたすら尾根伝いに北上する。ときには車が通れない細い道を渡る。尾根道は町の境界になっていることが多い。
尾根道から三ツ沢公園に入る。
保土ケ谷ICを過ぎ、片倉台団地に突き当たるので、迂回して北上する。片倉町と神大寺(かんだいじ)の境界に入ると、畑が広がり、遠くまで古道が見渡せた。昔はこんな気持ちの良い風景が続いていたのだろう。
そのまま岩根公園脇の水道道を進む。
尾根道と、上る道の合流地点。左の尾根道を進む。
篠原から菊名までのルートを、カシミール3Dのスーパー地形に表示させた。平面の地図から見えなかったが、尾根を進んでいるのがわかる。
丘陵部から平地に下り、菊名駅が見えてきた。
菊名~丸子橋 12.7km
大倉山を横切り、綱島を迂回し、日吉の丘陵地を越え、中原街道に合流して丸子橋に至る。
菊名駅構内を横切り、東口に出て綱島街道の裏道を進む。
大倉山に入る。
大倉山の地名は、ホテルオークラの大倉財閥が山の上に何かの施設を作ったのが由来だったかな、ぐらいの曖昧な記憶だったが、大倉財閥は関係なかった。あと、大倉山に変わったのは最近(2007年)というのも以外だった。それまでは太尾町(ふとおちょう)だった。
鶴見川を渡る。
綱島駅手前を西に進み、綱島台の台地を迂回する。
迂回した先にあった飯田家住宅の立派な長屋門。横浜市指定有形文化財になっている。
綱島から北上し、日吉本町駅前から東に廻り込み、西量寺西側から再び丘陵地を上り始める。
この辺りの旧地名は駒林である。頼朝が、巻き狩りの途中この地の有力者から白馬を送られ、土地の名前を駒林にせよ、と言ったことに由来する説がある。
日吉の丘陵上の旧地名は駒ヶ橋であり、小川に架かる駒ヶ橋があった位置に鎌倉街道の碑が立っている。この区間唯一の鎌倉街道の標識だったが、気づかず通り過ぎたので、google MAPで示す。
やはり尾根伝いに進む。
丘陵の頂上あたりで川崎市に入る。丘陵から下りる道は、途中階段になっている細道だった。芳賀本では、未舗装の山道だったと記述されているが、現在は住宅が迫り舗装されていた。
川崎市に入っても北上を続けて、中原街道に突き当たったところに大戸神社がある。ここまでのルートは諸説あるようだが、芳賀善次郎は、大戸は入り口の意味なので、鎌倉街道の入り口に立つ神社として大戸神社なのでは、という推定をされている。
中原街道を東に進む。
中原街道は、律令時代の古代東海道を元にしているので、鎌倉街道もこの道筋を利用していたと思われる。
中原街道が、クランク状に曲がっている角に小杉御殿跡がある。江戸時代の東海道が整備される前、将軍や大名が宿舎に使われていたとのこと。
東に進み続け、丸子橋も過ぎて多摩川の土手に突き当たる。河原の丸子の渡船場跡の碑まで行って、本日のゴールとする。
12時頃、武蔵小杉駅まで戻って電車で帰宅する。
下道は、鎌倉から保土ケ谷までが川沿いの低地を進むことが多かったのに対して、保土ケ谷からは多摩丘陵の尾根を進むため雰囲気が変わりました。多摩川から先は、皇居や東京の下町を進むので、また雰囲気が変わりそうです。
この先、鎌倉街道に関する史跡は無さそうですが、普段行かない都内を走るのは、いろいろな風景に出会えそうで楽しみです。