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坂東の源氏

 相変わらず猛暑が続くのと、台風の影響で自宅待機が続いています。その分、気になったことについて、本やネットで調べることに時間を使っています。
 前回、鎌倉街道の道中において、頼朝と馬に関する史跡が多いことをネタにしましたが、歴史を遡り調べていくと、坂東と源氏と因縁の深さを知ると共に、栄枯盛衰の物語としての面白さに惹かれました。
 今回は、坂東と源氏の関わりを振り返り、それが鎌倉幕府設立にどうして繋がったのか、自分なりに整理したので共有させて下さい。

坂東の令制国


清和源氏の系図

 清和源氏と言われるように、頼朝の祖先は清和天皇という説が有力だが、清和天皇の子の陽成天皇という説もある。同じく清和天皇の血を引くが、陽成天皇は素行が悪く17歳で退位させられ、狩猟と暴力に明け暮れた人物だったので清和天皇の流れとしたのでは(武士の祖先として相応しいという意見もあり)。
 なお、「源氏」は皇族が臣下の籍に降りるときに賜る姓であり、清和源氏以外にも嵯峨源氏など21系統存在するとのこと。

清和天皇(850〜880)
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貞純親王 * 清和天皇ー陽成天皇ー元平親王ー源経基 説あり
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源経基(?〜961)
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源満仲(912〜997)
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源頼信(968〜1048)
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源頼義(988〜1075)
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源義家(1039〜1106)
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源義親(?〜1108)
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源為義(1096〜1156)
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源義朝(1123〜1160)
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源頼朝(1147〜1199)

WIKIPEDIA「清和源氏」

源経基(つねもと) (?〜961年)

 清和源氏の祖である経基は、武蔵介(むさしすけ、武蔵国司の次官)として武蔵国に赴任し、坂東と繋がりが始まった。
 赴任の翌年939年に、平将門が謀反を企てているとして太政官に密告したが、将門の釈明が認められて、讒言の罪により拘禁される。その後、実際に将門の乱が起こり、放免され平定に向かうが、既に鎮圧されて帰京する。
 941年藤原純友の乱の平定に向かうが、これも既に鎮圧され家来を捕らえるに留まる。
 以後、各地の国司を歴任し、最終的に武家の最高栄誉職とされる鎮守府将軍にまで上り詰めた。
 坂東平氏の祖である平高望(たかもち)が889年に上総介(かずさのすけ)に任じられ、息子たちも同行し坂東に土着したのに対して、遅れを取ったビジター感が強い。将門記にも「未だ兵(つわもの)の道に練れず」と酷評されているようだ。


源満仲 (912〜997年)

 961年頃武蔵権守(ごんのかみ、在京の国司の代わりに現地に赴く国守・副官)に任じられるなど、坂東との繋がりはあるが、京周辺での活躍が目立つ。
 969年の安和(あんな)の変において、藤原摂関家の手下として密告により左大臣源高明と、その配下の藤原千春を失脚させる。藤原千春は、将門の乱の功により武蔵守に任じられた藤原秀郷の子であり、満仲との武蔵国の利権争いが背後にあったようだ。
 以降も、藤原摂関家に仕えて、各地の受領を歴任し莫大な富を蓄え、摂津国多田(兵庫県川西市)に居を定めて多田源氏の祖となる。武装した郎党を率い、狩猟と殺戮に明け暮れ、武門源氏としは満仲から始まったようだ。

中野区南台・多田神社
源義家が後三年の役から凱旋した際、満仲を祀る祠を建てたのが起源とのこと


源頼信(968〜1048年)

 986年の花山天皇出家事件において、藤原摂関家・道兼に近侍していた頼信も関与した可能性があるが、都では兄の頼光、頼親の方が藤原道長の近従として目立っていた。
 頼信の活躍は、999年に上野介(こうずけのすけ)に任官されたことに始まり、常陸介(ひたちすけ)在任中に地元の豪族平忠常が命令に従わないことから攻めて家来にするなど、坂東で武士として頭角を現す。
 時は流れ、1028年平忠常の乱が発生し、朝廷は平直方に追討を命じたが、鎮圧できずに戦火で土地は荒廃する。1031年に平直方の代わりとして頼信に追討を任じられると、忠常は直ちに降伏・出頭し、乱は終結する。頼信は忠常の一族を守ることにも尽力したことにより、坂東武士の調停者としての名声と信頼を獲得する。
 以降も各国の受領(甲斐守、美濃守、相模守、河内守)を任じられ、河内国(大阪府羽曳野市)を本拠地として河内源氏の祖となる。


源頼義(988〜1075年)

 弓の達人として若い頃より武勇の誉れが高く、坂東武士からも慕われた。父頼信とともに平忠常の乱の追討を命じられる。
 1036年に相模守として初めて受領に任じられる。在任中に平直方の婿となり、鎌倉の所領、郎党を譲り受けたことにより、桓武平氏嫡流の武力、権威も得た。
 1051年陸奥国の豪族安部氏が蜂起し、前九年の役が勃発する。頼義は陸奥守と鎮守府将軍を任じられ、坂東武士を率いて戦う。長期間の苦戦が続くが、1063年出羽の豪族清原氏の参戦により、安部氏を滅ぼし前九年の役が終結する。
 父頼信が調停者として認められたのに対して、平氏の武力・権威、合戦での実績を得て、武士のリーダーとしての地位と名声を確立する。


源義家(1039〜1106年)

 頼義と平直方の娘との間に生まれ、前九年の役の黄海の戦いに参戦し、神業と称された弓の腕前を見せるなど、武士のサラブレットとして10代から頭角を現す。
 1083年陸奥守となり、清原氏の内紛に介入し後三年の役が始まる。
 結果、清原氏は滅亡し、奥州藤原氏の祖となる藤原清衡が奥州を支配することになるが、朝廷からは義家の私戦とみなされ、陸奥守を解任される。また、敵方の最後の砦を兵糧攻めし、投降した家族含めて虐殺したことにより、多くの罪なき人を殺したと評される。
 晩年は、弟義綱との衝突未遂事件、嫡男義親(よしちか)の乱行、四男義国と弟義光との常陸国での合戦など、自身を含む身内の不祥事に悩まされる。
 義家没の翌年、1107年義親が出雲守の目代を殺害し、平正盛に討ち取られることにより源氏の地位は凋落する。反対に、平正盛は伊勢平氏の一族であり、ここから平家の躍進が始まる。

渋谷区神宮前・勢揃坂(せいぞろいざか)
後三年の役の際、奥州に向かう源義家の一行が、ここで軍勢を揃えたとの伝承がある


源為義(1096〜1156年)

 為義は、義親を父とするが、義家の四男という説もある。
 義家死去に伴い義家の三男義忠が家督を継ぐが、1109年郎党に暗殺さる。義家の弟の義綱一族が嫌疑を受け、為義が追討使に起用され、義綱を捕縛して都に凱旋する。
 その後、白河院とのとの関係が深かったが、本人および郎党の度重なる狼藉行為により院に忌避され昇進できなかった。1136年に左衛門少尉を辞任する(実質解任)。
 以降、次男義賢(よしかた)ともに藤原摂関家への接近を図り、1146年に検非違使への復帰する。一方、東国から戻った義朝は、鳥羽院に接近し対立する。
 1156年保元の乱勃発。為義は一族を率いて崇徳上皇方につき、後白河天皇方の義朝、清盛と戦うが敗れる。義朝は為義と弟たちの助命に奔走するが許されず、義朝の手で為義は斬首される。
 源氏が凋落した時期とはいえ、本人の素行に問題があったため受領に任じられることもなく坂東との繋がりはなかった。


源義朝(1123〜1160年)

 源為義の長男として都で生まれるが、少年期に坂東へ下向する。下向したのは、嫡子を外されたからという説が有力である。
 坂東では、上総氏の後見を得て上総御曹司(かずさおんぞうし)と呼ばれ、荘園をめぐる争いに介入し、院・摂関家の権威を背景に豪族間の調停者として活躍した。
 京に戻り鳥羽院に接近し、1153年下野守(しもつけのかみ)に任じられる。これにより、院と対立する摂関家を後ろ盾とする為義、義賢とは袂を分けることとなる。
 1155年武蔵国比企群の大蔵館に下向していた義賢を、義朝の長男義平が襲撃し殺害する。

嵐山町大蔵・源義賢墓

 1156年保元の乱が勃発する。皇位継承をめぐる後白河天皇と崇徳上皇の対立を軸に、摂関家、武士が二手に分かれて都で戦った。坂東諸国から多くの武士が動員され義朝に従っている。その中には、鎌倉幕府成立に関わった上総広常、千葉常胤、足立遠元らが、頼朝と敵対した大庭景親、斎藤実盛らが含まれる。後白河天皇側が勝利し、義朝は恩賞として左馬頭に任じられる。
 1159年平治の乱が勃発する。藤原信頼が後白河院と側近信西(しんぜい)の排除を目論み三条殿を襲撃する。義朝は以前より繋がりがあった信頼に従った。義朝に従った坂東武士には、三浦義澄、上総広常、斎藤実盛、足立遠元らが含まれるが、義朝との私的な繋がりから加わった。
 信頼側は清盛の逆襲に遭い敗れて、義朝は逃亡中に謀殺される。義朝の長男義平は処刑、次男朝長は戦傷死、頼朝は伊豆へ配流となった。

下飯田町・左馬神社
義朝の郎党だった飯田氏の所領内に左馬頭だった源義朝を祀ったサバ神社が10社以上ある


その後の源氏と坂東武士

 平治の乱により、坂東武士のリーダーとしての源氏は一旦途絶えるが、20年後伊豆で流人として暮らしていた頼朝が挙兵すると、一部を除いて坂東武士が従い、平家を倒して鎌倉幕府を設立し武家政権が始まる。
 武士としての実績も無く自らの兵力も持たない頼朝に、なぜ坂東武士が従ったのかが疑問だったが、今回調べて下記の通り推察する。
 坂東武士が、自分たちのリーダーに求めたのは下記では。
・中央の政権(天皇、院、摂関家)と調整できる家柄
・特定の勢力に加担しない公正な調停者(坂東に土着した平氏一族外)
・冷徹な決断力と意思の強さ
 これらは、頼朝以前の源氏一族に見られた資質であり(例外はあるが)、坂東武士はその再来を期待し、期待通りの役割を果たしたので頼朝に最後まで従った(頼朝の子孫の頼家や実朝は、それが欠けたので粛正されたのかも)。

 以上、あくまで素人の妄想と浅い受け売りということで、史実と異なることがありましたらご容赦ください。まだまだ妄想は続きます。

参考書籍

「源氏と坂東武士」野口実
「河内源氏」元木康雄


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