鎌倉街道 上道を走る 西大家~武蔵嵐山
上道の続きを走ります。
埼玉県の中央部に入るので、行き帰りのアクセスにトータル6時間ぐらい掛かります。地域的、季節的にも厳しい暑さが予見できるので、走る距離が短くなるように計画しました。
行程途中の毛呂山町では、鎌倉街道上道が国指定の史跡に指定され、観光資源として力を入れているようなので期待できます。
今回も芳賀善次郎著「旧鎌倉街道探索の旅Ⅰ 上道・山ノ道編」(1978年頃)を参考にし、最新情報を得るため高木光幸著「鎌倉街道を歩く 保存と活用のいま」(2019年頃)も参考にしました。
西大家〜武蔵嵐山 16.4km
関東平野の西端、緩やかな丘陵地帯を北上する。
自宅を6時過ぎに出て、西大家駅に着いて走り始めたのは9時を過ぎていた。駅を出て直ぐ、東京国際大学の運動部のグラウンドの間を進む。最近は駅伝が有名だが、いろいろなスポーツにも力を入れているようだ。
高麗川を越えてから、旧道の風景が徐々に出てくる。
毛呂山町に入り、歴史の道の案内看板が目に入った。
早速、雰囲気のある道が現れた。
前触れも無く鎌倉街道の遺跡が現道の脇にあった。「鎌倉街道上道」の幟は、この先の道沿いの各所にあった。
1982年と2011年に発掘調査により、ここで鎌倉街道の路面と側溝が発見された。今は草が伸びているが定期的に整備されているとのこと。
現道も未舗装路となり、さらに古道の雰囲気が出てきた。
鎌倉街道をメインにした観光看板もあった(凹んでるいるけど)。
再び未舗装路に入る。この道から50mぐら東に行くと毛呂山町歴史民俗資料館があるので観光の中心部のようだ。
この近くには堂山下遺跡や崇徳寺跡など中世の遺跡がある。当時は主要街道としてこの道筋が賑わっていたのだろう。
乗馬クラブがあり、遠くから馬を眺める。この道を通る人が少ないのか、馬からも注目される。
芳賀本でも、「まもなく馬場で旧街道は消える」と記載があるので、45年以上前から馬が飼われている場所のようだ。
鳩山町のメイン通りから、旧道に入ると3基の石碑があった。芳賀本によると、中央の供養塔の右下に「すがやのはらみち」とあり、鎌倉街道を指しているとのこと。
笛吹峠越えに向かう。
ガードレールの下に、小さな道標があった。将軍澤、今宿、板東札所10番正法寺などを案内しているようだ。
笛吹峠に向かう道は、ゆるやかな上り坂だが無理せずに歩く。
笛吹峠は、新田義貞の子義宗と宋良親王が、足利軍と戦った武蔵野合戦の際、最後に陣を張った場所とのこと。
なお、この辺りの地名「将軍澤」は、征夷大将軍坂上田村麻呂が、東北遠征の際に1夜を過ごしたことに由来するとのこと。
橋の欄干を模した「縁切橋」の欄干が歩道脇にぽつんとあった。坂上田村麻呂がこの地に滞在しているとき、京から奥方が心配して訪ねてきたが、「大命を受けて出陣しているのに追い来ると何事だ、今より縁を切る」とこの地で宣言したとの謂れがあるとのこと。
源氏に縁のある大蔵に源義賢(よしかた)の墓があった。
義賢は義朝(頼朝の父)の弟であり、義賢の子が木曽義仲、義仲の子が入間川で頼朝に討たれた義高である。義賢は、対立した義朝の命で義朝の子義平に討たれた。どうも親族で争うのが源氏の宿命のようだ。
そんな源氏を坂東武者たちはなぜ慕ったのだろうか?慕ったのではなく、利用しただけなのかも。だから最後は北条にとって代わられたのか。そんなことを想像する。
都幾川(ときがわ)に架かる学校橋から、更に近づいた秩父の山並みを臨む。
11時半頃武蔵嵐山駅に到着し、本日のゴールとする。午後から雨の予報なので迷うことなく切り上げる。
想像通り、鎌倉街道に関する史跡が道中に散在しており、街道・古道好きとしては、気分が上がりっぱなしの行程でした。ただ、道の遺構は土の下に埋もれていて、何か目を引くものがあるわけはないので、一般の人には期待外れになるかも。さらに、街道史跡は道沿いに点在していて、足を使わないと行けないこともマイナス要因かもしれません。
いっそのこと、自分のように走りたい、歩きたい人をターゲットとして、鎌倉街道とマラソンやウォーキングを絡めたイベントがあれば人気が出るのでは、と思いました。
今回は、曇りで気温も30度を下回りましたが、大量の汗をかいてきつかったです。今後はさらに酷暑の季節に入るので、続きは気候を見ながら計画したいと思います。もしかしたら秋になるかもしれませんが。