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鎌倉街道 上道を走る 藤岡~高崎(ゴール)
鎌倉街道上道の最終区間として、藤岡から高崎まで走ってゴールとしました(高崎が上道の終着点というわけではないので勝手に決めたゴールですが)。
思い起こせば3月上旬に鎌倉をスタートして随分時間が掛かっている印象ですが、途中中道や下道も走ったりもしていたので、上道だけでは実質7日の行程でした。
群馬県は、車や電車で通過することはあっても、降り立った記憶はほとんどありません。今回、自分の足で訪れたことにより、地形や空気を直に感じられ、より身近に群馬県を体験できたのではないかと思います。
今回も、芳賀善次郎著「旧鎌倉街道探索の旅Ⅰ 上道・山ノ道編」(1978年頃)と、高木光幸著「鎌倉街道を歩く 保存と活用のいま」(2019年頃)を参考にしました。
群馬藤岡駅〜三木 14.6km
前回ゴールの八高線丹荘駅からではなく、群馬県に入った群馬藤岡駅をスタート地点として、前回ゴール地点の神流川(かんながわ)の対岸まで南下し、高崎を目指す。
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東京駅に向かう東海道線の遅延のため予定していた新幹線に乗れず、1時間に1本しかない八高線にも乗り遅れたため、予定より1時間近く遅れて群馬藤岡駅に到着した。
藤岡市は、江戸時代に絹の取り引きで栄えたとのことで、かつての賑わいを感じられる街並みだったが、現在は落ち着いた雰囲気の町だった。ちなみに芸能人の中山秀征の出身地のようだ。
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神流川に近づくとこんもりと茂った森の中に土師(どし)神社があった。ここは埴輪(はにわ)を製作した土師(はじ)氏の祖である野見宿禰(のみのすくね)を祀った神社である。近くに埴輪窯址もあった。
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野見宿禰は、相撲が強かった伝説が残っている。そのためか神社の境内には相撲辻(相撲興行の土俵)が残っている。結構な高さがあるので、ここから力士が投げられる相撲は、見物だったのでは。
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前回ゴール地点の神流川対岸に到着する。対岸の土手からは見えなかった川の流れを見ることができた。澄んだきれいな水だった。
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神流川の土手に立って進行方向の高崎方向を臨む。ようやく上道の行程が再開するが、ここに辿り着くまでで結構疲れた。
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美九里東小学校に、在校生に向けたと思われる鎌倉街道の看板があった。上道はこの小学校の校庭を通っていた。
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庚申山(こうしんやま)の裾野を進むと、途中産業廃棄物や資材で道が塞がれていたため迂回する(地理院地図では道路だが)。反対側の鎌倉坂と呼ばれる未舗装路から逆行すると、こちらも倒木や藪で道は通れなかった。
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古道の名残を感じられる道のうねり具合に見とれる。
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鮎川に突き当たり、橋を渡るため迂回する。
群馬県に入り、渡る川が増え、流れの勢いも増したような気がする。豊かな土地の証拠だ。
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あと、群馬県に入るとそこかしこに古墳があった。群馬県は、その名の通り古代は馬の産地として栄えていた証だ。
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農地に入ると、区画整理されたまっすぐな道が多いが、一部古道らしい道も残っている。
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忠臣蔵の吉良上野介は、その名の通り上野国(こうずけのくに)に領地を持っていた。その領地を治めさせていた陣屋がここにあったとのこと。
中道を走ったとき、世田谷城が吉良氏の居城だったことを思い出した。忠臣蔵の討ち取られ役としての印象が強くなったが、地元では有力な武家として大事にされている。
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鏑川(かぶらがわ)〜高崎駅 10.2km
鏑川を渡って高崎市に入り、山側を進んで高崎中心地に入る。烏川(からすがわ)の渡河地点候補は各所にあったようだが、今回は佐野の渡し付近で越えた。
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本日だけで3本目の川を臨む(神流川、鮎川、鏑川)。鏑川の上流には下仁田町、富岡市があるが流量があり、水は澄んでいる。
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鏑川沿いを北上する。このあたりも古墳が散在していた。
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ちょっとした峠越えに入る。埼玉、群馬に入り平野を突っ切っていたが、神奈川県、東京都内で山ぎわ、山裾を進んでいたことを思い出した。
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今回寄らなかったが、ちょっと足を伸ばせば国の特別史跡に選定された山上碑がある。天武天皇の時代(681年)に造立された日本最古級の石碑とのことである。隣に有力豪族の古墳もあり、これも馬の生産地として栄えていた時代の遺物だ。
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谷側の住宅地より高い位置に古道は通っている。治水対策がされていない時代の道ではあるが、谷川を回避するためにはこの高さが必要だったという認識が必要だろう。
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この日は曇りで見通せないが、本来、榛名山や信越の山々が臨めたはず。
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広大な烏川(からすがわ)の河川敷を進む。遊水地としての役割があるのだろう。
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市街地に向かう木造の佐野橋で、本日4本目の川、烏川を渡る。この日渡った川はすべて利根川に合流する。
高崎市民にとって絶好の散歩やジョギングコースと思ったが、あまり人がいない。
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高崎の市街に入り、住宅が近接した児玉往還を進む。
この先の城南大橋の下をくぐる歩道橋を渡った先に、タイトル画像にした鎌倉街道碑があった。埼玉県と比較すると、群馬県に入ると鎌倉街道のアピールが少なく、ここが唯一の史跡表示だった。
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13時50分高崎駅に到着する。
ささやかな完走のお祝いとして、ビールとサンドイッチを買って新幹線に乗り込んだ。
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鎌倉街道は、律令時代の官道や江戸の五街道と異なり、計画的に整備された道ではなく、鎌倉時代に使われていたであろう古道の総称なので、終着点(開始点)か決まっているわけではありません。ここから信濃や越後に繋がる道もあったと思われます。どこかで区切りをつける必要があるので、参考にしている芳賀本に習い、高崎をゴールとしました。
結果、全行程で7日、計192.4kmでした。
鎌倉〜町田 38.2km
町田〜東村山 37.8km
東村山〜西大家 26.2km
西大家〜武蔵嵐山 16.4km
武蔵嵐山〜男衾 20km
男衾〜神川 29km
藤岡〜高崎 24.8km
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次は中道の続き、川口から先を走ろうと思います。また、上道の総集編みたいなのも作りたいと思っています。