鎌倉街道 下道を走る 鎌倉~保土ヶ谷
鎌倉街道の上道、中道を走ったので、今回から下道を走ります。
まずは鎌倉から保土ケ谷まで進みますが、以前浦賀道として走ったり、何度か走っているので、新しい場所への期待はありません。その分、通り過ぎていた周辺の史跡に寄り道していこうと思います。
下道は、鎌倉街道の中で一番東側を通る道であり、千葉氏、豊島氏、葛西氏などが在所と行き来するために使われたとのことですが、鎌倉と外港のあった六浦との間は、物流ルートとして重要な区間だったようです。その途中にある朝夷奈切通を改めて訪れて、その思いが強くなりました。
今回も参考にした書籍は、芳賀善次郎「旧鎌倉街道 探索の旅Ⅱ 中道・下道編」です。
鎌倉~金沢文庫 11.6km
鎌倉から東に進み、朝夷奈切通を超えて東京湾側六浦に出ます。
朝8時前、いつもの鶴岡八幡宮からスタートする。GWの真っ只中だが、この時間はまだ人は少ない。
鶴岡八幡宮の東側を出ると、すぐに畠山重忠邸跡の碑が立っていた。鎌倉は、普通に歩くだけで鎌倉時代の史跡に当たる。
御大にご挨拶するため、ルートから北に向かい、法華堂跡に行く。同じ敷地内に北条義時の墓もあるようだ。
杉本寺は、734年創建の鎌倉最古の寺と伝えられている。火事で被害を受けた寺に、頼朝が修理金と十一面観音菩薩像を寄進したといわれている。開門時間前だったので入り口から覗くだけ。
滑川沿いに進むと、草で標識が隠されていたが太刀洗水があった。「鎌倉殿の13人」でも印象的なシーンだったが、梶原景時が上総介広常を討った後、ここで太刀を洗った伝説がある。
朝夷奈切通に入る。この道は、1956年に県道204号金沢鎌倉線が開通するまで、幹線道路だった。
切り通しの一番深いところは10m異常掘り下げられている。開かれた当初からこの深さではなく、補修工事を重ねるに連れて、だんだん深くなっていったようだ。それにしても、ここまで掘り下げてまで、道を通した執念に驚嘆する。それほど鎌倉と六浦湊の道が必要だったのだろう。
切通しを抜け、環状4号線に入ると、風化が進んで原型をとどめない鼻欠地蔵がある。相模国鎌倉郡と武蔵国久良岐郡の国境がこのあたりにあった。
鎌倉時代の文献には「鎌倉街道」という言葉はなく、幹線道を表す「大道」「大路」がしばしば使われている。この辺りの地名が大道なのは、まさにこの道が鎌倉時代の幹線道だったからだろう。
環状4号線が16号線に突き当たる手前左の山上に、上行寺東遺跡がある。1984年、マンション建設の事前調査時にやぐらや寺院の遺構が発見された。頼朝が六浦山中に創建した浄願寺の跡ではないかと言われたが、反対運動が起きる中、マンション建設のため破壊された。現在残っているのは、マンションの横に復元されたレプリカである。
当時の記録フィルムがYoutubeにアップされている。画質は悪いが当時の雰囲気が良くわかる。当時は京急線路脇にやぐらが連なっていた。
16号線を北上し、金沢八景駅前を過ぎると、頼朝が勧進した瀬戸神社があり、道路を挟んだ向かいに北条政子が勧進したと伝わる瀬戸弁財天がある。瀬戸弁財天の参道前に、福石という奇石があるが、頼朝が参拝時に服を掛けたことから服石と呼ばれ、後に服が福になったとのこと。
16号線から分かれて、瀬戸橋を渡る。金沢八景の一景「瀬戸秋月」の舞台だ。鎌倉時代は、橋は無く、船で入り江を渡ったようだ。
当時の六浦湊周辺の地形を再現した大型のジオラマ模型が横浜歴史博物館にある。当時の道もしっかり作られているので、古道好きは必見である。
上行寺東遺跡の位置に、ちゃんと浄願寺の標識が立っていた。
瀬戸橋を渡った先の町屋が、鎌倉の外港として栄えた六浦湊の中心地だった。ここを起点と考えると下道のルートは納得がいく。
町屋の先に称名寺や金沢文庫があるが、今回は寄らずに金沢文庫駅方向に向かう。
金沢文庫~保土ヶ谷 15.5km
金沢文庫からの山越えと、保土ヶ谷手前の丘陵越えがあるが、中間は平坦な川沿いを進みます。
16号線から金沢文庫駅北側の踏切を渡り、能見堂緑地の山道に入る。途中、金沢八景の眺望が素晴らしかった能見堂跡があるが、現在は樹木で見晴らしは良くない。
しばらくは山道を進む。駅近で昔の風景の古道が残っているのは、貴重だと思う。
山道を抜けると、宅地開発されたエリアに入り、古道は消滅する。能見台、富岡の住宅地を抜けて、笹下川沿いに入ると古道が復活する。
古道は川の氾濫の影響を受けない高台を進む。途中遊歩道区間もある。
笹下町付近で旧道区間は終了し、笹下釜利谷道路に合流する。
この付近の旧村名は「雑色」だった。中道にもあったように、街道を監視する雑色の武士が配置されたのだろう。また、バス停や交差点に残っているが、「関」という町名もあった。通行料を徴収する関が設けられたとのこと。
しばらく進むと現在の鎌倉街道と交差する。この「鎌倉街道」の正式名称は「神奈川県道21号横浜鎌倉線」であり、鎌倉に繋がる道路として正しい通称だ。
現在の鎌倉街道は上大岡駅前の大通りだが、古の鎌倉街道は繁華街の中を通る。
上大岡駅の北側で現代の鎌倉街道と合流し、大岡川沿いを北上する。途中、横浜国大の前に、タイトル画にした「鎌倉街道の碑」があった。
蒔田駅手前で現代の鎌倉街道から左に曲がり、最後の丘陵越えに入り、急坂を上る。
坂を登り切り、下りに入るところに北向地蔵があった。側面に「これより右の方 ぐめうじ道」とある。中道を走ったとき、栄区の新橋のたもとにあった標識が示していた「ぐミゆうじ道」がここに繋がる。近いうちに「ぐめうじ道」も間道として走りたい。
保土ヶ谷駅に向かって急坂を下る。坂の途中、北条政子が化粧に使ったという伝説がある御台所の井戸があった。
旧東海道との分岐点である金沢横町まで行く。
後ろの建物は観光案内所になっていて、中で展示物を見ていたら案内所の方から、どこから来られました?と聞かれ、鎌倉から走って来ました、と答えたが、理解されなくて??になっていた。かなさわ道と答えておけばよかったかも。
12時頃に保土ヶ谷駅に到着し帰宅する。
今回のルートは、鎌倉街道下道というよりは、鎌倉から六浦までの六浦道と、金沢から保土ヶ谷までのかなさわ道に分けて考えた方がいいかもしれません。別ルートとして、もっとまっすぐ北上するルートも芳賀本で紹介されているので、下道に一旦けりが付いたらそちらも走りたいと思います。
次は、保土ヶ谷から二子橋まで進む予定です。