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鎌倉街道 下道を走る 石岡~水戸(ゴール)
下道の最終区間として、石岡から水戸まで走りました。
この区間には、古代の国府を直線道路で結んだ駅路の痕跡が各地に残っており、それを起源とする五万堀古道の伝承や地名が各地にあります。五万堀とは、後三年の役の際に源義家率いる五万の兵が通ったことに由来し、頼朝も奥州征伐時に通ったことから、「頼朝様道」の呼称もあるとのことです。
駅路システムは10世紀には衰退したようですが、義家は11世紀末、頼朝は12世紀末に利用したことになります。台地上の無理のない道筋なので、現在でも残っていると考えます。
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今回は、鎌倉街道としての伝承地は見つからなかったので、ひたすら直線道路の痕跡を探しながら北上しました。失われた箇所を迂回しながら。
参考にした書籍は、高橋修・宇留野主税編「鎌倉街道中道・下道」になります。古代道路としては、武部健一「完全踏査 古代の道 畿内・東海道・東山道・北陸道」を参考にしました。
府中~手堤 13.6㎞
常陸国府のある石岡市から北上し、小美玉市に入ってから若干東寄りに方向を変える。
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9時半頃に石岡駅に到着する。品川から特急に乗ったので、早くて楽だった。しばらくは国道355号線を進むが、一部旧道区間もあった。
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新大矢橋のたもとに、佐竹氏征伐時に上総広常に討たれた佐竹義政の首塚があった。
前回、佐竹氏征伐の距離と時間経過の違和感を述べたが、常陸国府とこの場所の距離感なら、国府到着の同日に討たれたことは納得できる。
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355号線と分かれて、直線の未舗装路に入る。ここも五万堀古道なのか。
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常磐線の線路を越えて東よりに進路を変える。
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直線道路の失われた区間を継ぐため、藪に迫られた未舗装路にも入る。
この後、常磐自動車道を越える跨道橋も渡った。
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この辺りの地名は「五万堀」のようだ。現地で確認できた唯一の「五万堀」看板だ。
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小美玉市北浦の新興住宅地に隣接して古道は進む。林の中には古墳があった。
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巴川を超えるために迂回する。
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栗林の間の直線道路に入る。
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直線道路は民家の間も進む。
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直線道路は手堤池の堤の上を進む。
「手堤(てつつみ)」は義家が奥州に向かう際、手で堤を築かせたのが由来とのこと。
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安居(あご)~鯉渕町 12.5㎞
長い直線道路が何カ所か残るが、涸沼川(ひぬまがわ)を超えるため大きく迂回する。
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直線道路は農業センターの敷地に入り途絶える。
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農場センターの先で直線道路は続くが、拡幅工事をしていた。この区間もモダンな道路に姿を変えるのだろう。
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安居は、駅路の安侯(あこ)駅があった場所として比定されている。
涸沼川を臨む場所から遺物が発掘されているとのことだが、案内看板のようなものは見当たらなかった。
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迂回して涸沼川を越える途中、南西の筑波山を臨む。筑波山も遠くなった。
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迂回先の直線道路から安居の方向を振り返ると直線道路があったが、多分古道ではない。
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長兎路(ながとろ)と仁古田(にこだ)の境の切り通し状のこの道は、「五万堀」と呼ばれているようだ。1686年に作られた絵図にも直線道が描かれ、「五万堀」の表記があるとのこと。
実際に発掘調査により、両側に側溝を伴う大規模な直線道の跡が確認されている。
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五万堀古道はやがて栗林に入り、正面の工場で途絶える。
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工場を迂回した先で、直線道路は県道52号に姿を変える。
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直線道路は水戸市に入る。
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鯉淵町の播田実(はたみ)に入り、県道の直線道路区間は終了する。
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県道から離れ、直線道路の経路に近い道を選択して進む。
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鯉渕町~渡里(わたり) 12.4㎞
那珂川を臨む水戸台地北端の渡里を目指し、直線道路の経路に近い道を選択して進む。
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涸沼前川の低地から丘陵に向かう。
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地図で見つけた直線の古道を進むが、ここが五万堀の続きかは不明である。
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林の中を進むが、この辺りの開けた休耕地は軒並み太陽光発電になっていた。
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県道30号に合流すると、一気に現在の道路の風景に変わる。
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再び県道を離れて、渡里方向に向かう直線道に入る。耕作地なので圃場整備による直線道の可能性が大きいが。
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常磐線赤塚駅の西の踏切を越える。
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国道123号線との交差点を、水戸市街は目指さず直進する。
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目指していたのは、ここ台渡里官衙(だいわたりかんが)遺跡群である。中世初期においては、こちらの方が中心だったと思われ、駅路の河内駅もここが比定地とされている。
鎌倉街道の目的地としては、こちらの方が妥当と考えた。
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一盛長者伝説とは義家伝説のひとつであり、奥州への進軍と帰路の際ここに住む長者に歓待を受けたが、あまりに豪華な接待だったため、このような富豪は後の災いになると考えて滅ぼした、というものである。
同じような伝説は安侯駅周辺にもあり、同じ出来事が2つの伝説になったのか、それとも各地で同じようなことをしたのか。いずれにせよ、乱暴者であったことがうかがい知れる伝説である。
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この後、水戸台地の端まで進み、タイトル画像にした那珂川の進行方向を眺め、下道のゴールとした。
水戸駅までは走る体力も時間も無く、バスで移動して帰宅した。
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水戸を下道のゴールとしたのは、上道を高崎、中道を宇都宮としたので、北関東の主要都市到達でいいかと考えたからです。この先の奥州に至る道も気になりますが、そこは別の機会の楽しみにとっておきたいと思います。
下道の全行程は、計234.4㎞、8日間でした(間道を除く)。
鎌倉~保土ヶ谷 27.1㎞
保土ヶ谷~丸子橋 22.9㎞
沼部~墨田 30㎞
墨田~松戸 13.2㎞
松戸~我孫子 36.1㎞
利根町~土浦 33.3㎞
土浦~石岡 33.3㎞
石岡~水戸 38.5㎞
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次の目標は、芳賀本に紹介されている最後の鎌倉街道、山ノ道を考えています。その名の通り秩父を経由する山中の道になるので、しっかり計画を立てて臨みたいと思います。