鎌倉街道 上道を走る 町田~東村山 前編
前回に引き続いて、鎌倉街道上道の続きとして、町田から東村山までを走りました。印象的な風景や伝承に出会えて、今回も量が多くなりそうなので、前編、後編に分けてアップします。
鎌倉から離れるにつれ、鎌倉街道の痕跡が薄くなるように思われますが、実際に訪ねると、いろいろな意味で、鎌倉街道の存在感が増していました。
特に、鎌倉幕府を倒した新田義貞に関する史跡が目立っていたでしょうか。鎌倉の近郊は、源氏に関する史跡が多かったのに対して、離れると新田義貞の方が人気かも。
また、各所で雰囲気のよい散策ルートに出会うことができました。その印象が冷めないうちに紹介したいと思います。
なお、参考とした書籍は、今回も下記になります。
・荻窪圭 「鎌倉街道伝承を歩く」山川出版社
・芳賀善次郎 「旧鎌倉街道探索の旅Ⅰ 上道・山ノ道編」さきたま出版会
町田~中河原 17.8㎞
町田から北上し、多摩丘陵を超えて多摩川を渡るまで進みます。
前回のゴール地点の原町田中央通りからスタートするが、何も考えずに前回の道のりを進んだので、いきなり間違えて神奈川往還(絹の道)を進んでしまった。先が長いので引き返さずに鎌倉街道のルートの途中に合流する。
菅原神社の境内には「史跡 井出の澤」という石碑があるようだが、見逃した。鎌倉幕府滅亡後、北条高時の子時行が、足利尊氏の弟直義とこの地で戦い、勝利した。その勢いで一度は鎌倉を奪還したが、わずか20日後に再び足利尊氏に奪い返されたとのこと。
木曽団地東の交差点から、竹藪の間の台地に上がる石段を上る。ここは「一色の舌状台地」と呼ばれているとのこと。舌状台地とは、文字通り舌の形をした台地で、城を築くには最適な場所であり、ここに室町時代の武士、一色伊予守が住んでいたという伝承があるとのこと。
石段を上がった先には畑とグラウンドが広がっていた。合間を進む。
左手に山崎団地を見ながら、さらに上る。
町田ダリア園の脇を下る。
野津田に向けて、七国山の丘陵地を越える。七国山の中腹に、古道の面影を残す区間がある。
なお、トトロの「しちこくやま」のモデルはこちらではなく、東村山の八国山とのこと。今回の行程の最後に訪れる。
古道区間に、新田義貞が軍馬に水を与えたと伝わる鎌倉井戸の史跡がある。また、鎌倉古道の石碑や案内板があった。
この辺りは緑地保全地域として、雑木林が残されている。
七国山を下り、丸山橋で鶴見川を渡る。
芳賀善次郎の本では、野津田から小野路に向けて丘陵を超える区間は、最も自然が残っている区間、との記述になっている。現在は野津田公園として整備されているので歩きやすい。
上の原の平場を横切る一区間が、鎌倉古道として区切られていた。
小野路は、街道沿いの谷間の宿場町である。鎌倉街道沿いの宿場町として栄え、江戸時代には大山道の宿場町として賑わっていた。
小野路の途中「関谷の切り通し」の案内に従い、丘陵に入る。
鎌倉街道のルートからちょっと外れたところにあった「関谷の切り通し」。車道を作るため、深いところで7〜8mぐらい切り通されてたが、法面が崩壊しつつあった。
多摩ニュータウンに出る里山道を降る。
多摩ニュータウンに入ると、大規模開発と宅地化により古道のルートは失われているが、丘陵地と谷間が交互に現れる地形は残っている。貝取の丘陵地を右に見ながら回り込むように進む。この丘陵地の尾根を、鎌倉街道は通っていたのではないかとのこと。
乞田川を越えて、多摩市役所がある丘陵地の中腹が古道ルートである。
熊野神社の前にある「霞ノ関南木戸柵跡」の石碑がある。鎌倉街道の関の南の端だった柵の跡が発掘されたことによる。
新田義貞が、北条泰家の軍と戦った古戦場の跡。ここでも勝利をおさめた新田軍は勢いに乗って鎌倉に攻め込む。
関戸橋で多摩川を渡る。
多摩川を渡ったところで行程の半分来たことになります。ちょうどいい時間だったので、コンビニでお昼を買って、そばのベンチでお昼休憩を取りました。
後編では、武蔵野台地を東村山まで進みます。