鎌倉街道 中道を走る 二子玉川~岩淵 西ルート
鎌倉街道中道の続きを走ります。
前回二子まで走った翌日発熱して、病院でコロナと診断されたので、翌週末は自宅謹慎して、今後の行程のルート作成をしていました。
岩淵までは西ルートと東ルートがあり、西ルートだけでいいかと思っていましたが、東ルートをたどると渋谷、新宿、池袋と大都会を縦断するので、それはそれで面白そうだと思い始めました。
とはいえ、西ルートはほとんど行ったことがないエリアなので、ここも飛ばす訳にはいかないということで、今回は西ルートを走り、次回東ルートを走る予定です。
前回で既に大山街道として史跡が目立って、鎌倉街道の痕跡は見当たらなかったのですが、今回の行程では何か見つかるのでしょうか。
今回も芳賀善次郎の「旧鎌倉街道探索の旅 中道・下道編」を参考にしました。前回のように宅地開発で道筋が変わったエリアはなく、45年前の本のルート通り進めました。
二子玉川~中野 13.4km
若干東寄りに武蔵野台地を北上します。大きな川もないので、アップダウンはあまりありません。
8時半過ぎに二子玉川駅に到着し、多摩川を望む場所からスタートしようと考えていたが、マンションが並び、近づけなかった。
以前、青山通り大山道を走ったときは、二子玉川駅の東側を進んだが、今回のルートに大山道関連の標識があり、どうもこちらの方が本筋だったようだ。
公園に大山詣の像があった。以前走った道筋とは外れるのだが、三権茶屋から分岐して、用賀で合流するルート(大山道上町線)があったようだ。
有名な世田谷ボロ市が行われる通りに入る。ボロ市の歴史は古く、小田原北条氏の時代に楽市として始まった。明治に入り、古着を扱うことが多かったため「ボロ市」と呼ばれるようになった。
世田谷城は室町時代に吉良氏の居城として築かれた。周囲より高台になっている。秀吉の小田原征伐後に廃城になった。
世田谷城址から西に向かい、豪徳寺に寄る。招き猫の発祥の地として、海外からの観光客に人気の場所のようだ。
梅ヶ丘駅を過ぎて、羽根木公園脇から笹塚駅に向けて北東に進むのだが、この間、古道の面影を残した住宅街の細道を進む。
笹塚駅手前で「鎌倉通り」と合流する。
「鎌倉通り」は、三権茶屋付近から北上し、下北沢駅の西側を通り笹塚駅に至る。途中、北沢川に架かる橋は、鎌倉橋というそうだ。芳賀善治郎の見立てによると、「鎌倉通り」は室町期の道ではないかとのこと。
甲州街道を超えて杉並区に入ると、旧道の道筋は、宅地化により寸断され、複雑に入り組んだ路地をジグザグに進む。
多田神社は、鎌倉との繋がりを感じさせる史跡である。八幡太郎こと源義家が後三年の役から凱旋するとき(1092)、源氏の先祖多田満仲(源満仲)を祀る祠を建てたのが起源とのこと。そんな神社と鎌倉街道が繋がるのは必然だろう。
また、この周辺は雑色村と呼ばれていた。鎌倉幕府の時代、雑色は雑役をこなす下級役人であり、街道の重要地点を監視していた。ゆえにこの周辺に鎌倉街道が通っていたと推察される。
案内看板にもこの周辺に鎌倉古道が通っていたとあった。
鍋屋横丁通りに入り、青梅街道に突き当たる。
中野~岩淵 13.9km
中野市街から北上を続け、荒川の渡河地点の岩淵に向かいます。
紅葉山公園の脇を進み、中央線のガードをくぐり、あまり踏み入ったことがない都区内北西部に入る。
中野駅周辺から離れて、ようやく古道ぽい風景が戻ってきた。
哲学堂公園の脇を進む。
豊島区、板橋区と国道420号線を進み、途中旧道区間に一部入る。
国道から大山西町あたりで細道に入るが、気づかず行き過ぎて戻った。
轡(くつわ)神社の前の標識に、この道が鎌倉街道とあった。今回の行程で見つけた数少ない鎌倉街道の痕跡だ。
この辺りも旧道は失われ、入り組んだ路地を縫うように進む。
首都高速の高架下を進む。
赤羽台の大規模な都営アパートが建ち並ぶ地域を進む。
タイトル画像にした宝幢院前の道標の説明看板。「南江戸道」とあるのは、これまで来た道ではなく、赤羽駅方面から来る旧岩槻街道を指すようだ。
荒川に到着する。埼玉県の標識は過ぎたが、googleマップだとわずかに埼玉県には入っていなかったようだ。
赤羽駅に13時半頃着き、電車で帰宅する。
結局、鎌倉街道を匂わせる痕跡は、多田神社と轡神社の2箇所でした。また、下北沢駅近くを北上する「鎌倉通り」など、想定していない鎌倉街道にも出会えました。
都内には、そんな「鎌倉街道」がまだまだあると思われるので、そんな発見も楽しみです。
次回は予告したように中道の別ルートを進み、その後は下道にも進みたいと思います。
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