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秒速5センチメートルはなぜ心に響くのか~「失恋」ではなく「○○」の物語~
はじめに
最初の記事のテーマを考えた時、ふさわしいと思ったのがこれ。
来年2025年に『秒速5センチメートル』の実写映画が公開されるのが発表されましたね。
この作品は新海誠監督の2007年公開作品。新海監督の世間一般での知名度を上げ、代表作扱いされるのは『君の名は。』(2016年公開)だと思うのですが、それ以前から新海監督がアニメファンに支持されるきっかけとなり、最高傑作と呼び声高いのが『秒速5センチメートル』です。
私もこの作品が好きで、結末までの報われなさに対して最後に心が浄化される感覚があります。実は同じ意見の人がいっぱいいて、大半の人が「物悲しい・感動する・心打たれる・心が浄化されるけれど、それがなぜなのかよく分からない」と明確な理由を説明できないことが多いです。人の深層心理に入ってくる感じで、言語化しにくいのですよね。
たぶんこれからアニメ映画の方の『秒速5センチメートル』に触れる人が増えると思うので、個人的な考察を記事にしておこうと思います。
個人的解釈ですので、一個人の考え方と思って頂けたら。私も異なる考え方を否定するつもりはありませんし、ウエルカムです。
それ含めて解釈の幅が広いのが新海監督作品の魅力かなと思います。
考察であるためネタバレあり、前提として登場人物や設定の説明を省いていている点があります。読む際はご注意下さい。
この作品の主題は「失恋」?
多分観た人は『秒速5センチメートル』を「失恋もの」と捉える傾向があります。確かに全体を見れば貴樹が明里に恋して結ばれなかった結末までを描いているわけなので、そう解釈するのが自然です。しかし私は違うと思っています。正確に言うと、別の「主題」があって、それを描くための手段として恋愛を用いたと考えます。確かにメインは恋愛映画と言ってしまってもいいのですが、実は別の主題の方が人の心の奥に響き、ただの失恋ものとして終わせなかったのだろうと思います。
(なんせ一般層の支持を得る10年前の作品。当時のファン層も『君の名は。』に比べたら恋愛経験者も少ないオタク寄りですし、恋愛による共感とは別に共感された部分があったからっていうのが私の推測です。)
では主題は何か?それは子どものころに抱く「孤独」・「無力感」、それらからの「解放」です。つまり『秒速5センチメートル』とは、誰しもが成長途中で悩む孤独や無力感から救われることを扱った作品なのです。
貴樹の「孤独」とは?
まず、全編を通して貴樹の苦悩―分かり合える存在がいなかった孤独―が描かれています。貴樹の親はいわゆる転勤族で慣れ親しんだ環境を失う経験を繰り返してきました。
誰しもが何かしら経験したことあると思いますが、過去の出来事を共有できなかったり、周りが持っている出来事を知らなくて輪に入れなかったりして、心の拠り所がないのは、精神的にかなり堪えます。転校したが故に皆との生まれが異なり、その場のルールどころか背景に広がる暗黙の共有事項に入りこめない・相手は自分の過去と分かり合えない(と感じる錯覚)は、未熟な子どもでは折り合いつけるのが難しいです。大人になって就職しても理不尽なことは多いし、叱られた悔しさを慰めてくれる存在はむしろ子どものころより少ないですが、無条件で現れる同期の存在で救われた人も多いはずです(私は一度転職して同期がいない状態になったので、これを再認識しました)。この問題は生きている間いくらでも付きまといます。
貴樹は一人っ子なので環境の変化による孤独を共有できる兄弟がいませんでした。なら親は?と思えますが、30~40年生きた、しかもある程度の覚悟をつけやすく主体的に物事を決められる大人と同条件ではありません。さらに身体が弱く、内向的な性格もあって、転校しても友達を作りにくかったでしょう。彼の少年時代は分かち合えない孤独の連続です。故郷と呼べるものもなく心の拠り所すらない。故に似た境遇を持つ明里が彼にとっては救いになったのです。共に内向的な点含め、お互いの境遇による悲しみを理解できたからこそ、お互いを拠り所にできるからこそ惹かれあったのです。
貴樹の「無力感」とは?
ただ、単なる孤独で終わるだけなら貴樹はここまで苦しい思いはしなかったはずです。彼は更に「無力感」に苦しめられます。
まず転校。彼には常に自分の意志では決められないことに巻き込まれていく感覚があったはずです。続いて1話『桜花抄』中盤、電車で栃木に向かう際に大雪に巻き込まれ、明里に直接渡す予定だった手紙を道中に風で飛ばされます。大人になるまでに大事な時に限って運の悪いことはいくらでも経験するし、大人なら良いこと悪いこと含め色々経験して「人生まあこんなもんか」と割り切れるものです。
しかし貴樹はまだ中学生でした。彼の中では人生で重要な場面に限って運の悪いことを経験し、人生全てが悪いことの連続、自分の力が通用しない、何か大きな力に振り回され阻まれる「無力感」が植え付けられたわけです。
この「孤独」「無力感」が彼の人生の歩みに影響を及ぼしていきます。
貴樹の各話での行動・思いと意味
1話『桜花抄』終盤
貴樹は明里との再会と交流を経てある思いを抱いてしまいます。それは「得たものを失う恐怖は単なる孤独以上に恐ろしいこと」です。明里という存在を得たからこそ、失った恐怖を知ってしまったのです。そして明里とは先の件で抱いた何か大きな力によって引き離されそうになる出来事はいくらでも来るだろうと。だから彼は明里と敢えて決別することを選んだのです。
もしこのまま関係を続けて上手くいくかもしれない、でも自分に降りかかる不幸で明里を苦しめるかもしれない、守る力がなくて傷付けるかもしれない、自分の傍にいることで苦しめるかもしれない、嫌いになって別れるかもしれない、その時は今以上に別れで傷付くかもしれないし耐えられないかもしれない。彼女を傷つけたくない優しさや男としての(未熟だけれど)見栄やプライド・恐怖心・決意をもって決断したわけです。
そして貴樹の中には「(後に大切な存在を得た時の為に)大きな力に立ち向かうための、不幸にならないための力が欲しい」という目標ができます。
そして、それが彼を更に苦しめます。
2話『コスモナウト』
視聴者から意図がよく分からないと言われる貴樹の謎行動が「携帯メールを入力して送信することなく消す行為」。一見明里に送っていると思われていたのに、実は送らず消していたことが3話終盤に発覚します。(彼のポエム的な言い回し含め中二病だとか言われていますが)
結論から言うと、この時の貴樹はいわゆる飛び立つ練習をしていたのです。前話で明里を切り捨てる決断をしましたが、元より抱える「孤独」「無力感」から精神的に不安定でした。どこかで明里、もしくは本当に信頼できる人に縋りたい、心の拠り所を求める気持ちがありました(後述しますが冒頭の夢がその気持ちの表れです)が、花苗に見せたように表面上は平気なフリをします。
『桜花抄』で決意したように、大きな力に立ち向かうために強い心を得たい、「弱い自分は強い力を手に入れてからでないと誰かと一緒になってはいけない」気持ちがあるわけです。でも、もしかしたら心が突然限界を迎えるかもしれない。その気になれば明里とのつながりを得られますが(前話で手紙が来たわけですから、引っ越してさえいなければ貴樹側からも手紙を送れますし)、敢えて切り捨て、強くなるための練習こそが「メールを送らない」という行為なのです。
3話『秒速5センチメートル』
主題歌『One more time, One more chance』がバックで流れる中、貴樹は理由も分からないまま明里の幻影を街中で見かけ続けます。彼は結局抱いた夢で心の奥底に仕舞っていただけで、本当は明里、もしくは本当に寄り添える人を拠り所にしたかったのです。『コスモナウト』冒頭の夢はまさしく貴樹の本当の望み―明里のような安心できるような人の隣を居場所にしたかった―を表していて、ロケットの運搬を見た花苗が不意に口にした「秒速5センチメートル」に反応したように、過去の思い出から逃れられていません。弱い自分に寄り添ってくれる人を求めていたのです。仕事と恋愛の苦しさから心が折れたからこそ、蓋をしていた気持ちが理由も分からず溢れてきたわけですね。
では貴樹はどうすれば良かったのか?
まず貴樹は強くなったのか?不幸にならずに済んだのか?答えは誰からの目から見てもNOです。
貴樹は仕事で大きなトラブルに巻き込まれ、最終的に退職します。まず、人生は大なり小なり幸福と不幸の連続です。幸福と言っている人はマクロ的な視点で捉えているためであり、局所的に不幸でない人など誰もいません。貴樹の抱いた目標「不幸にならないための力が欲しい」というはそもそも破綻していて、「不幸にならない」とは誰も叶えられていない大それた夢なのです。そして、これこそが特に視聴者としては共感しやすい部分なのです。不幸に疲れ、「不幸になりたくない」という強固な気持ちは、誰しも未熟な頃に抱きやすい思いです。でも、本来必要なのは不幸があっても受け流し、立ち上がるための「しなやかな強さ」です。貴樹はそのことに気付けなかったのです。
二つ目は、誰にも寄り添わなかったことです。理紗含め交際した女性はいましたが、貴樹は誰とも心を開きませんでした。過去の孤独な体験から、誰も拠り所にできなかったのです。では貴樹は誰からも好かれなかったと言えば違います。花苗のように好意を持つ人もいました。彼が勝手に壁を作っていただけで、誰とも打ち解けようと思えばできたのです。寄り添ってくれる人はいたのです。「弱い自分は強い力を手に入れてからでないと誰かと一緒になってはいけない」というのは特に男性あるあるで、典型的な手段が目的になってしまっている状態です。この点が特に男性からの共感を得やすい部分ですね。今の居場所に愛着がなくても、これから愛着を持てば良かったのです。未来の幸せを追い求めるために、現在の幸せを蔑ろにしているのです。幼少の頃に居場所を与えられなかっただけに、その後に続く「居場所は作り上げる」感覚も持ってなかったのでしょう。「ないものを気にするより、逆にあるものを見る」大人になってから気付くことがありますが、このような過去の未熟な経験を持つ人が共感しやすい部分なのだと思います。
ラストで見出した救いとは?
恋が実らなかった・明里とは住む世界が変わったことを示すラスト。
バッドエンドとも思えますが、貴樹はある救いを見出します。心の中にある明里との思い出こそが自身の原点・原動力であること。明里への淡い気持ち・美しい桜の風景こそが、今の自分を形作っている実感を得る、ある種のアイデンティティを獲得したわけです。そして新海監督の映像美がこの確信に力強い説得力を持たせます。
誰しもが持つ心の故郷とも呼ぶべき場所、そこへの気持ちを思い出させてくれる力がこの映画にはあります。それが人によっては恋愛相手であったり、恋愛未経験でも別の優しい何かがあったりします。この実感を若くして気付けている人は中々いません。普通に語れば説教臭い、自己啓発セミナーみたいな忌避感を抱かせるこの事実を、難しい言葉を使わず、分かりやすく伝えるからこそ『秒速5センチメートル』には強烈なメッセージ性があるのだと思います。
余談
完全な余談ですが貴樹の立ち直り方はうつ病からの回復に似ています。(私自身が経験者でもあるから感じましたが)自分の負の面を嫌い、完璧主義の気持ちから心が挫け、回復する過程でありのままの自分を認められるようになるのが、まさにそっくりです。過去の苦しい記憶に悩む人はいます。でもそれは変えることは不可能だし、あくまで記憶でしかありません。それをどう捉えるかが重要です(例えばペットロスに悩む人が、苦しくなるかもと愛犬との思い出に蓋をする人がいますが、それが最適解とは誰も思いませんよね。苦しい思いもあるけれど、楽しかった思い出を振り返るように)。
私が『秒速5センチメートル』を観たのは鬱になる何年も前ですが、感覚で貴樹が浄化されていることを掴みました。おそらく似た感覚を掴めた人が多いのではないでしょうか?
おわりに
私の考察は以上です。これを読んだ人の心の中のモヤモヤが少しでも晴れてくれたらうれしい限りです。繰り返しになりますが、異なる考え方を否定するつもりはありませんし、多く語らないからこそ解釈の幅が広いのが魅力です。
長文読んで下さりありがとうございました。