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ジョルジィ・リゲティ ピアノのための練習曲集第一巻(1985年) その1

  L’ordre est le plaudits de la raison : mais le désordre est le délice de l’imagination.
  秩序は理性の楽しみだが、無秩序は想像力の愉悦である。
(ポール・クローデル「繻子の靴」序文より、渡辺守章訳による)

 …何年も経って、80年代中頃にピアノのための練習曲集を作曲しはじめた時、私はこの類似性を強く感じました。それぞれの作品の中で、自分が選んだピッチとリズムの集合から、半ば自由に、また半ば囚われながら、自ら課した基準や制限に従い、音楽の生地を作り上げるのです。規則と一貫性がなければ、でたらめな作品が生まれますが、規則が厳密すぎると、音楽の「精神」を殺してしまうことになります。音楽を組み立てるには、数学的論理性・一貫性の域には決して達することがない、幾 分かは緩やかな基準が必要なのです。(2001年京都賞受賞の際、リゲティの講演「科学と音楽と政治のはざまで」から引用)

  1. Désordre(無秩序) :ピエール・ブーレーズに献呈

  2. Cordes vides(開放弦):ピエール・ブーレーズに

  3. Touches bloquées(妨げられた打鍵):ピエール・ブーレーズに

  4. Fanfares(ファンファーレ):フォルカー・バンフィールドに

  5. Arc-en-Ciel(虹):ルイーズ・シブールに

  6. Automne à Varsovie(ワルシャワの秋):ポーランドの友人たちに

 一曲毎に壮大な一発ギャグ、ではなく一回性が強い場合も多いアイディアを生真面目に実行する曲集で、リズムが徐々にズレてゆく事でカノンが伸びてまた縮む構造が大ネタになってる第一曲“Désordre”、右手はハ長調の記譜で白鍵、左手はシャープ五つのロ長調の記譜で黒鍵中心に弾く。
 冒頭、譜面には「常に(throughout)控えめにペダルを使用、両手ともメロディはレガートで」とあります。後半にさしかかって今度は「次第にペダルを多く使用する」と指示が。前半から後半にかけての響きの変化を求めているわけですが、注目すべきは控えめとは言いながらも冒頭から常にペダルを使えと言っている事だと思います。踏み込みすぎないハーフとか1/4ペダルと呼ばれるテクニックで両手オクターブのメロディにレガート感をつけながらもサステイン効果は響かせすぎない程度に調整する。後半はより踏み込んで響きを豊かに変容させるわけです。
 ソニー・クラシカルのジョルジィ・リゲティエディションシリーズでのピエール=ローラン・エマール(1957/9/9 -)さんの録音(1995年スイス、ラ・ショー・ド・フォンのサル・ド・ミュズィック)ではそれが鮮やかに捉えられていると思います。彼の初録音(エラート1988年IRCAMのエスパス・ドゥ・プロジェクション)は全体にドライな響きで、ペダルが深くなっていく変化は感じられない。ラ・ショー・ド・フォンのホールは響きの美しさからエマールさん自身やチッコリーニのドビュッシー録音にも使われたところで、リゲティにおいても同様の指向を求めたのが興味深い。いつものようにスタインウェイ使用。
 一方ペダル好きで知られるミカエル・レヴィナス(1949/4/18 -)の録音は冒頭からペダルが深く響きが濃い。細かい動きが響きに埋もれないギリギリのところを狙った感じで、その分オクターブ・メロディのレガート感はより明確。エマールさんのクリアな響きと比べると全体としてはウェット。後半さらに響きは深まってちょっとお風呂場状態かも。同じ曲を聴いたんだろうかと思うほど聴後感が違う。解釈の多様性という事でそれもこの曲が名曲である証と言っときましょう。ピアノはヤマハ、パリのサル・アジャール(かのイーヴ・ナットがシューマン等を録音した由緒あるホール)での録音。
 さてサブスクを生かしてユジャ・ワンを聴いてみる。2018年ベルリンはフィルハーモニー・室内楽ホールでのリサイタルの一曲。力強いアクセントで低音側メロディも非常に明確、後半ペダルが深くなってゆく対比も意識的です。ジャケット写真からみるとスタインウェイ。それにしても凄まじいコンサートプログラムだな。(この項続く)

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