良い人生とは

今までの人生を振り返ってみたが、結局悩んできたことは「良い人生とはどういうものか」ということになる。
まずこの手の話題にありがちなことは、「良い人生はこういうものである」という答えを出したはいいものの、思想を持っていること自体に満足して実践せずに終わる、言い換えると立派な豪邸を建てたものの隣の犬小屋に住む滑稽な状態であり、それを避けないといけない。

じゃあ良い人生とは勉強や仕事で成功することを指すのだろうか?たしかに仕事や勉強がうまくいくと、年収が高くて豊かな生活ができて他人から尊敬される。でもそれは他人にとって都合のいい人であって主体的、本体的な善ではないのではないだろうか。「いい人」と同じように結局他人や社会の奴隷になることではないだろうか?とはいえ承認欲求と性欲は満たされるのだから欲求を満たすことこそが幸福だと考えるのならそれでいい。しかし、欲求を満たすことだけが本当に良い人生なのか?初めから欲求を満たすだけの存在として形作られているのなら、自我なんていらないし本当の自由など存在しない。だから自分はもっとマシな、自由になれる理想を要求したい。人間として生まれてよかったと思える生き方が欲しい。でもいくら考えてもそんなものはわいてこないし、結局自分の人生の在り方も「ライフスタイル」という比較可能な一般名詞に置き換わってしまうのではないか、生き方というのもその「ライフスタイル」の型から選ぶだけなのではないか、という心配がある。「ライフスタイル」という言葉を使うのは結局自分の行動様式を自慢したいときである。わざわざ自慢しなくてはいけないということは真にその生活を満足しているとは言えないのではないだろうか?結局主体的、本体的に満足した生活を送ってもどこか物足りなくなって他人から承認してもらわないといけなくなる。結局この手の欲望は満たされたら次のものが欲しくなってエンドレスなのではないか?だったらいつまでたっても幸せになれないのではないか。

そう考えると、比較できるものの中から幸福を探すのはやめたほうがいいだろう。では比較できないものは何なのだろうか?一つ仮説を考えてみたのだが、言葉で表せるものは比較できるものでそうではないものはできないというものだ。比較できるものとしてまず思いつくのは長さや重さなどの物質的な量である。年収や身長は単位があるから簡単に比較できる。美しさみたいな数値化できないものは比較できないと言われるかもしれないが、結局私たちはいつも自分の顔と他人の顔を見比べて自分は不細工だと落ち込んでいるではないか。

もしこの仮説が正しかったら本当の幸福は言語化できないものなのかもしれない。しかし自分は言語化できないものを考えることはできない。霊感が強い人にしか見えないという感じだったらもう詰みな気がする。

とはいえまだ糸口はあると思う。例えば趣味について、ドライブが好きな人がいたとしたらドライブが趣味な人と一般名詞化されてしまうだろうが、その人がドライブするときに感じる爽快感は美しさと同様に比較できるものであるものの、一般名詞化されない「なんかいいかんじ」があると思う。

また、そもそも幸福なことだけがいい人生であるのかという疑問もある。自分は友人と遊んでいるような楽しいときにほど、ああ結局卒業したら別れなければいけないんだとか最悪結局死ぬしなと思ってしまう。逆に精神的に苦しかったり、何かに追われているときのほうが生を実感できる。死を忘れられるから良いだけかもしれないが。結果的に幸福だったら苦痛も幸福であると言われたら元も子もないが、少なくとも死んだら今世で得たものはすべて失う。たとえ前世があったとしても前世の記憶なんてほとんどみんな持ってないのだから結局失うことになるのだろう。

やはり、そういえば、結局死ぬことの恐れを乗り越えないと真の幸福なんて得られないのではないか。自分は死後の世界があるという言説を多く見てきたし、プラトンの著作でも論じられていたし信じたいが、信じ切れていない。少なくとも魂が永遠であるのは何となくわかる。だってそもそも無だったらなんでこの世に自分が存在しているのかわからないからだ。しかし魂が永遠であるという前提に立って死後の世界を考えてみても、神がいたらその神が存在しているのはなぜ?神を作った超神がいてその上に張超神がいたとしたら無限ループになって矛盾を起こすから論理的に捉えることはできなくて詰む。多分こういうのが形而上学で批判されてきたんだろう。

結局前に言った言語化できないものになるのだろう。

だから存在するとは信じつつも、それは言葉で論じられる範囲ではないから考えるのはやめて、言葉で考えられる現実世界でどうにかしよう、というのが今言えることだ。結局振り出しに戻った。

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