自己像を捨てよ

像と本体の違い

そもそも像が何なのかというと現実に基づく幻想と定義しておくが、わかりにくいため、例を用いて説明しよう。「他人」を例にしてみると、私たちがその人と関わるうちに抱いた印象から「あいつはああいうやつだ」とつくられるイメージが像であり、相手そのもの、つまり私たちが脳内で思考するように存在する意識が本体である。私たちはもちろん他人の本体を除くことはできず、単に像だけでその人について関わることができる。

また、このことから像は思考の対象にできる客体であり、本体は思考の主体であり対象にはならないということがわかる。

自己像について

不思議なことに自己の中には自己像と本体の二つが含まれている。しかし、これはおかしいことではない。というのも、本体は現在にしか存在せず、過去の自分は客体としてみることができるからだ。わかりやすいイメージだと、私たちは常に時間の流れに沿って未来に向けて前に進んでいて、進行方向の後ろに振り返ってみると過去の自分が歩んできた跡が点々と見えるような感じだ。そして、その点々としたパーツを組み合わせて自己像というものがつくられる。

自己像による苦しみ

私がタイトルで自己像を捨てよと書いた理由は自己像に苦しめられている人を多くみてきたからだ。勉強も運動もできて人望もあるのにちょっと間違えただけで自分はダメだと嘆く人や、成績も運動もできないのに自分はすごいとアピールしてくる卑屈人間など、これらは人は自己像に苦しめられているのであり、健康そうに見えている人も、私自身も、多かれ少なかれ苦しめられている。

「毒親」との類似

自己像で苦しんでいる人間の言動に怪しさを感じるのは、彼らが「毒親」と似ているからと推測する。自己の本体を親、自己像を子供とすると、自分はすごいとやたらと自慢する人というのは、「うちの子は優秀なのよ!」と自慢する親で、自分は他人より劣っていると落ち込む人は「A君はできるのにあなたはできないのね」と、よその子と自分を比べて非難してくる親のようなクソさだ。

克服することはできるのか

毒親のように自己像と関係することによる苦しみを克服することはかなり難しい。タイトル通り自己像を捨てれば楽になるかもしれないが、それは不可能だ。というのも、自己像とは最初に定義した通り現実でもあり幻想でもあるため、自己像は幻想だったと信じ込んで逃げようとしても、自己像はすべて事実から基づくものだからいつまでも付きまとうからだ。

現時点の結論

今のところ自己像は鏡に映った自分の像と同じようなものとして扱うのが良いと思う。私たちが鏡を使って自分の顔を見るときというのは、身だしなみを整えたりスキンケアをしたり、他人に不快な思いをさせないようにするときだ。また、自分の顔の素の美醜は永遠に変わらないものであり、自己自身もそのようなものなのであきらめるしかない。直すべきところは自己像を使って直しそれ以外は関わらないようにするべきだと思う。

そして、最もよく効くと思うのは、楽しいとか美味しいみたいな本体的な満足を優先することだ。過去のことを悔やんでも変えることはできないし、今直面している現在を真剣に享受しようとする姿勢を保つことが何よりも大事だと思う。



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