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自分が弱くなる環境から距離をおけ
僕の書く文章は見る側に配慮した文章の書き方とはとてもかけ離れたものだが、今更ながらどういう人に見てもらいたいだのダッシュボードを逐一見ることをしていたことを恥ずかしく思い、気にしないことにする。
まずアウトプットが下手な段階なのでひたすら書く方向にしようと思う。
Twitterの某カエル氏の投稿を拝見した際、納得するものがあった。
弱い力をかけ続けられていると段々とその部位が弱くなっていく
とのこと、精神疾患を経験した僕は非常に共感できる内容だった。
例えば毎日のように受験の不合格に対して危惧し続けていれば精神的に弱くなることは当然のことだろう。
また例えば毎日仕事で包丁を使い続けていれば職業病で腕に痛みを感じるようになることも容易に想像ができるだろう。
これに関連し僕の今年感じたことのうちの一つを語ろうと思う。
ルッキズムという言葉をご存知だろうか。
ルッキズムとは身体的に魅力でないと考えられる人々に対する差別的な取り扱いのことを指す。身体的魅力はよいものと関連づけられる。他方、身体的に魅力がないことは悪いものと結び付けられる。Wikipedia引用
僕は低身長を少々コンプレックスに思っていた節が過去にあり、また容姿に関して心が痛むような思いをしたことがある。自分の気にしている部分に対して悪口を言われた経験が何度かあったのだ。
またそのようなことを言う人間は同年代に多く、飲食店や電車で人の容姿のことに聞こえる声でつぶやかれていた場合には発狂してしまいそうな思いになる。
そんな中浪人期間家にいる僕は9月の初めまで髪を伸ばし続けていた。
髪の毛を結べる長さであったのでロン毛に分類されるのだろう、そんな容姿でいた中、飲食店へ祖母と来ていた際、高校生くらいに見受けられる若者に僕を対象としていたのであろう髪の長いことに関して耳に聞こえてきたのだ。
その時である、かつての自分だったら はっ?って思う負の感情が出てきていたにも関わらず、その時には何の負の感情も生まれなかったのだ。
これを日記に記していた僕は考察したのち、容姿を気にせずにはいられないような環境に身を置いていたことが問題なのではないかと結論づけた。
自分の容姿に関してどう思われようと気にしない自分になっていたのである。
ただ浪人という半ニートな生活をしていたからであり、他人と関わる生活をしていたらまた戻ってしまうと危惧してはいる。それにしてもルッキズムの呪縛から逃れることのできた非常に重要な切り口のように思う。
思春期における学生生活期間というのは特に自分の容姿について気になる時期である
その中で人の気持ちなど考えず他人の容姿について呟いてしまうのもまた学生であったりする。
この他人にどう思われるとか、他人の目を気にして落ち込んでしまうというのはこのルッキズムの感じ方に感化されてしまっているのだ。
これを応用した考え方をしてみることにしよう。
自分が今悩んでいることがあったとしてそれを解決する、またそこから逃れる手段が連続する日々の中に存在しているのだろうか。
世の中の言い回しの中に時(とき)が解決してくれるという言葉がある。
これは自分が何らかの行動をして解決するといったことの他に環境的な外部要因によっていつの間にか解決されるという事例を抽象化したものである。
これも良い解決手段のように思われるがこれにはどうしてもやはり時間の消費が不可欠である。
若い時分に気にし続けながらいるというのはどうしても惜しいような気がするのだ。
私はこのようにストレスのような負荷を感じ続け苦しい状況にいるのならば、その状況から離れてみることも手段の解決方法であるように思う。
現代の悩みに関してこの文言はありきたりで改めてよく聞くものであるように私も感じてはいるが、ここに大きなヒントがあるように思って他ならないのだ。
どことなく気にしてしまってウンザリしていることがあるのならばそのいまいる状況からその負荷がかからない場所へ移動してみるのはどうだろうか。
きっと従来の考え方の他に別の考え方ができる自分がそこにいるはずである。