タダでやってよ問題
自分のブログを読み返すと読みにくかったので句点を減らすことにした。
タダでやってよ問題はいつの時代になっても尽きない、人類の宿命のような問題であると思っている。
あれもタダ、これもタダ、それもタダ。全部タダで当たり前だ。
じゃあ、これを極めたらどうなるのかというと多分悲惨なことになる。
全部、タダでやりました。本当はお金を取るところをタダでやった。自分のビジネスを強引に押されてタダでやった。どうなるのか?
私が思うのは、こうやって「タダでやっている分際の捨ててもかまわない人間」が出来上がるのではないか。
早い話がちょこっとだけ有用な使い捨ての消耗品だ。
何でもタダでやれば「タダで当たり前」という認識に周りはなってくる。
タダで当たり前になれば周りの要求は加速度的に上がっていき、最後には死ぬほど自分に不都合なことを「タダでやれ」みたいなことになるのではないだろうか。
こうなれば、ゴミである。使い捨てるくらいしか価値がない。そんな消耗品的存在だと認識される。
全部タダの安い人間だ。使い捨てても何の心も痛まない。ゴミのような人間に同情する人間などいないのだ。
間違っても安請け合いはするものではない。同情心や良心からタダでやると周りの人間は付け入ってくる。
よくある話だ。善人は搾取体質の使い捨ての道具だ。極端な話死んでもかまわないのだ。
タダでやってよ問題は、自分の価値にも大いにかかわる重要な問題だ。
価値のない人間は優先的に使い捨てられる。「そのくらいしか役に立たないんだから」と周りに怒られながら。
人間はみんなクズだ。私もクズだしあなたもクズだ。だから価値が無い人間を使い捨てたり危害を加えることを何とも思わない。
きれいごとを言っても無駄だ。善人面して私を叩いた時点で、すでに価値が無いと感じた人間の見下しは始まっている。
もう一度言うがタダで何でもやる人はゴミだ。実態はともかく周囲からそう見られるのだ。
そしてそれは道徳とか倫理とか人道とかでコーティングされてさも当たり前のことのようになっている。
タダでやる人がちょっとでも自分の都合を出したり助けなかったりすれば道徳を持ち出してゴミのように叩かれる。助けた時点で手遅れだ。
人間はクズなんだから必要以上に助ける必要はない。助けると付け上がって道徳を盾に図々しくどこまでも要求する生き物だ。そしてそれは、みんなそうだ。
良心を出して助けるのは美徳だけど、行き過ぎるとゴミになる。人間クズなんだから必要以上に手を貸す必要はない。そういう話。