紫色の酒

精神疾患の人間から、酒と煙草を取り上げるなんて正気じゃない。
健康な奴らはこれだから困る。
こっちは生きてることが奇跡なのだ。
とか言っても、つい先日、風呂で手首を切り刻んで
救急車で緊急搬送されたばかりなのだが。
死に損なった私に残されたのは、20針縫った傷跡と、
10万円の請求だけだった。
縫われる時の麻酔と縫合の痛みも相当だったが
オーバードーズしていたせいで、食道まで炭の塊みたいなものを
突っ込まれ、あれは本気で苦しかった。参りました、もうしません。
今度自殺を図るときは飛び降りにしようと、魂に誓った瞬間でもあった。
一泊の入院だけで、放り出されるように帰らされた。
迎えに来てくれた夫は、こちらが拍子抜けするほど落ち着いていて
なんで怒ってないの、尋ねたら、いや、覚悟はしてたから、と言った。
心が壊れた女を妻に迎えた時点で、早々と葬式をあげることになる可能性は
とうに考慮していたのだと。
それでも彼は毎日のように、君は幸せになれるよ、と
確信めいた瞳で告げる。
重篤なうつ病である私には、残念なことにその言葉は染み込まない。
それが心を病むということだから。
何もかも、悪いようにしか考えられなくなる呪いだから。
あの日、どす黒く染まった風呂の湯に、あともう少し手首を
浸したままにしておけば、私は確実に死んでいた。
それくらい死ぬのは簡単なことなのだ。
いつだって、どこだってできる。
ならば、もう少しだけ生きてみようか。
笑ってしまうほど、死ぬのなんか怖くはないというのに。
私が何と答えるか分かっていて、調子はどう、と聞いてくる
精神科医に、また今度会った時も、死にたいです、と言うけれど
死にたいと、本当に死ぬことの違いくらいは、30年間も
精神を病んでいれば理解し尽している。
それに、一番邪魔なのは、私が夫を愛しているということだ。
それ以上に邪魔なのは、いつ死ぬかもしれない私を
夫が愛してくれているということだ。
彼が作る料理は本当に美味しい。
特にカレーのレパートリーが如実に豊富だ。
飲み過ぎないようにね、という言いつけは守れないけど
私は天国にあると噂される紫色の酒の泉にどうしてもお目にかかりたいので
彼よりは先に逝って、酔っぱらっているつもりでいる。
だってその紫色の酒、どんなに飲んでも二日酔いにならないという
素晴らしい特典つきなのだから。
あ、でも保険証の裏側に、臓器提供OKのサインしてるから
あの世ではもう肝臓ないかもしれないなぁ(笑)

#創作大賞2024

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?