聖良

「私の名は聖良。麻耶を守るためのみに存在する別人格です。
今日は特殊なケースだったので、久々に駆り出されて出てきました。
でもご安心を。この肉体も精神も、すぐ麻耶にお返ししますから。
もうしばらく空気とやらを吸わせてくださいね、何せ久方ぶりなもので。」
離婚調停の帰りの電車の中で、我が娘は見たこともない笑みを浮かべながら
瞳に異様な眼光を宿しつつ、私に笑い掛けた。
話し合い、というか泥試合としか例えようのない調停の間中、
本来ならか弱く脆い精神障害者である娘の、堂々たる意志の強い発言力、
どんな底意地の悪いことでも平然と言ってのけるしたたかさに、
戸惑いと頼もしさを同時に感じていた。
まさか、解離性同一性障害が、30年経った今でも続いていただなんて。
ずっと一緒に暮らしてきたのに、全く気づきもしなかった。
まだ彼らが、彼女の中で、生き続けていただなんて。
言葉を失ったまま、ただ娘であり娘ではない人間の横顔を見ていた。
含み笑いを浮かべながら、微かに鼻歌を口ずさむその人は
ただ、恐ろしいほどに美しかった。
この先また、泥試合の場が設けられれば、その度に彼女は現れるのだろうか。
恐怖と期待がせめぎ合って、ただただ混乱するばかりで
電車のアナウンスがワンワン弛んで耳に響いた。
聖良という存在が娘の中に居ると知ったのは、まだ娘が10歳の頃だ。
私は解離性同一性障害なんて病気にかかった娘を到底受け入れられず、
ただただ娘を、麻耶をなじり倒した。
自分のせいで娘がそんな恐ろしい、わけのわからない状態に陥ったなんて
認められるほど私は出来た母親ではなかった。
それは、今でも同じだ。
私はこの状況を受け入れられるほどの心の柔軟さなど持ち合わせていない。
でも、認めざるをえないことだけはわかっている。
だって、目の前にいる女は、あまりにも美しいから。
自分が産んだものとは、明らかに違うと証明しているから。
これから調停が進めば、その度に聖良に頼ることになるのだろうか。
この美しき化け物の力を借りずして、勝てるとは悔しいが思えない。
一切の会話のないまま帰宅し、彼女はにっこり笑うと
おやすみなさい、お疲れさまでした、とだけ言い残して
寝室へ入った。
翌朝、我が娘は少し気まずそうに、でも確実に麻耶に戻ったとわかる表情で
昨日は大変だったね、と弱弱しく笑った。
私が愛している娘は紛いもなくこの子だけだ。
だけど、昨日出会った女に、何か奇妙な魅力によって惹きつけられている。
あの女を娘だと思うことは出来ないし、別人なのだと思うからこそ
惚れたかのような錯覚すら覚えるのだろう。
おそらく、遠くないうちに再会するであろう彼女の魔力を、
こんな場面で、こんな状況下で借りる羽目になるとは
人生とはなんと、皮肉なものだろうか。

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