【言葉遊び】ダブル・ミーニング : その精神、技法、それと展開
身構えていいです。自分は馬鹿正直の村から来ました。このぶぶ漬け精神あふれる日本で、これから茶漬けの具に供されにいくところです。
しかしその前にいくつか書き残さなければならないことがあるのです。
ダブル・ミーニング。言葉遊びにふれるひとがかならず通るであろう概念ですね。新聞記者が、詩に精魂こめるひとが、韻を踏むことに慣れたラッパー達が、そのうち認識するというソレです。同じ一行にちがう異義を加えるという技法なのですが…
このページは、自分がこれまでに得た知見をシェアする、いわばちょっとしたレポートになります。未熟な行文は多々あると思うので、気付きがあればアドバイスなどいただき、より洗練されたものにしていけたらなと思います。一方ではなく双方での働きかけってわけですね。
というわけで早速やっていきましょう。この奥ゆかしき隠蔽技にはいくつかの方策があるのですが…その前に、これに触れるための精神をおさえておきましょう。
1. 精神 : 騙(かた)れ、ただし語るな
この技を学ぼうと、日本の文献、果ては海外の楽曲まで調べていましたが、その中で得た大発見に「いちいち詳細に説明しない方がかえっていい」というのがあります。
ある日のこと、自分はあるタイプの"抽象的"(アブストラクト")といわれるラッパーたちが、その詩についてなにも説明してくれてないことに気づきました。どころか、そのファンたちが投稿などで褒めそやしているとこを見ても、行間や細部についてほぼ触れてないんですよね。
はじめそのことに自分はイライラしたんですが、どうもこれには納得の理由があるようなのです。ざっと書いていくと…
① そもそも抽象的なので、正解がない
② ヤボである
ということです。ひとつひとつ見ていきましょう…
[1]正解がない
まず正しておくと、ラッパー、とくに海外のMCにおいて、抽象的といわれるひとたちは、言われるほど取り留めがないわけではなく、いやむしろ"抽象的"という呼び方それじたいが抽象的なんだということです。
例えば――忌野清志郎の『雨あがりの夜空に』において、彼は車を思わせる言葉を並べながら、同時に下ネタを臆面もなく歌ってみせている、とファンから思われているわけなんですが、このとき「車」と「下ネタ」とは、それぞれ独立して映像として成り立っているわけです。
つまりこういった詩群において、抽象的というのは観念的なことをずらずらならのではなくて、むしろ写実的なものが混在しているということなのです。自分はこれを、よりわかりやすく捉えるために"並行影記(えいき)"と呼ばせていただいております。
でですね。この並行影記がずらりと続いていくと、いったいどっちがどっちの表現なんだ? ということがしばしば起こります。前述の文で例えると、車と下ネタ、そのどちらでも成立しそうに見える意味合いが出てくるんですよね。
なのでファンはおおよそのことは言えたとしても、いちいち細々とした部分において「ここはこういう体の描写で〜」といったことは大っぴらにできないんですよね。どこまで行っても正確性に欠けるので。これがダブル・ミーニングを扱うときに気をつけることのひとつだと思います。
[2]ヤボである
ふたつめとしては、そもそも説明するってことがヤボってことです。だって歌曲を生み出した作者が語っていないのだから、ようするに"語り"をしないほうがよりいいと決定したってことなわけです。
このLess is Moreにも似たミニマリズム的精神は、のちの技法編でもしばしば登場するものなので覚えておいてほしいです。まあともかく、作る側にせよ楽しむ側にせよ、出来上がった作品にたいしてあれこれと審美眼をむけることは、ひるがえってその神秘的なものをおとしめることになるぞってことです。
それが自分が、その音楽を満喫しているコミュニティから得た知見でしたね。とはいえ馬鹿正直の村から来たので、会得するためになかなか心労が絶えませんでしたが…
また、それが主要な原因なせいで、このあとの技法をあつかう段において、めぼしいアーティストの楽曲をとりあげて具体的に解説するということができません(上記の詩も、ネット上に既にある故人のものということでしぶしぶ引用させていただきました)。よって文献の参照が乏しい、信憑性にかけるものとなってしまうことをここにあらかじめお詫びしておきたいと思います。
では前置きも終わったことですし、いよいよその技法にどんなものがあるかを見ていくことにしましょう。
2. 技法 : 映像を描き切るための撮影機のつかいかた
はてさて、自分たちが取り扱うのはとりも直さず映像なのですが、それを復元するために(そう、映像の復元です。自分達が元にしようとしたのは、そもそも現実なのですから)使えるツールは、悲しいことに活字だけです。
よって、ここに並行影記という概念を持ち込みそれをやってのけようとするわけですが、それってどう表現すればいいのでしょう。親父ギャグのようなものがはたして役にたつのでしょうか?
都合の良好であることに、自分が各地でサンプリングしてきた品目どもがありますので、いくつかここに共有していきたいと思います。計6つ!
幼児のために用意された本から、国際的とも言える古典、果てはぶあつい辞典まで。使えるものはなんでも使っていきましょう。
また要素を過ぎるごとに、より表現が深まるようになっております。はじめはオボエのない技術があってもいずれ興味関心がわくはずですので、最後までお目をお通しいただければと。
[1] 同音異義字
まずは初歩ですね。ひとつの品名に聞こえるけれど、イミは違う単語というやつです。たとえば「状況(joukyou)」というがあったとき、その背後には「上京(jou-kyou)」というものもある。そういった場合、この同音異義字というものが使えるわけです。
それではさっそくこの技法を使って、ダブル・ミーニングを作ってみましょう。こんな風に…
これでももちろん良いのですが、さきほど載せた並行影記という考え方からいくと、あまりできが良くありません。
なぜかというと、これは1行目に対して、その説明を2通り述べてるに過ぎず、映像は二重ではないからです。
というわけでこいつをこねくり回してみましょう。次のようなものはどうでしょうか?
このような具合です。なるほど、この方はテストを受けていて、問題文のあまりの困難さに打ちひしがれている、といった様子ですね。
そしてもちろん、ここにはもうひとつ中身が隠れているのが分かるでしょう。
はてさて、ではどのようにこれを作っていくかを説明しましょう。
① 原型の文章をつくる
これははじめの"状況"を使ったもののことですね。もういちど載せましょう。
この時に同音異義字になっているのは"ジョウキョウ"という言葉だけなのですが、ここから言いかえできそうな言葉をピックアップしていくことになるわけです。
② 同音異義字と言いかえを探す
なるほど、まずこの"南海"には同音である"難解"が隠れてますね。これをノートの脇にでも、つまり清書でない欄に書きとめておきます。
そしたら他に使える言葉があるか、連想してみましょう。南海トラフ、地震…お、この"地震"には"自信"という同音異義字がありますね。メモメモ。
さて、ここまでで同音異義字はいいでしょう。次に――この項にはそぐわないのですが――言いかえできる言葉をさまざまな手法で探していくことになります。
そうですね、手始めに"地震"という文字を言いかえてみましょうか。ここでは…地震→震えへと、汎用的である動詞に移しかえましょう。そしてさっきと同じように紙のカドにでも残しておきます。
さらに特徴のある言葉を見ていきましょう。なるほど、残っているのは「東京」ですね。ではこれを…
このばあい肉体の"心臓"がふさわしいでしょう。つまりこの心臓は都心ってことですね。日本の心臓部をシンプルに"心臓"ということで、カラダのメタファーに掛けることができるわけです。
あとは空いた位置に補填するような言葉を入れていけばいいです。"試練"、"ビル"…そうですね、ここには「地震のほう」と「テストのほう」があるので、この"ビル(Building)"という地震のほうでのみの有効な単語を、テストのほうにも通じるように言いかえましょうか。この場合は"棒グラフのビル"ですね。
ちなみにこの"心臓"、"試練"、"棒グラフのビル"のように、「まるで〜〜だ」「〜〜のような」などの直喩、飾り言葉をはぶいた表現、あいまいな形容を、俗に隠喩(英語での"メタファー")と呼びます。
詳しく言えば、この心臓は「都会は"まるで"国における心臓だ」という直喩から取られているものですし、棒グラフのビルでは「ビルは"まるで"棒グラフだ」ないし、「棒グラフは"まるで"ビルだ」という直喩をひとまとめに"棒グラフのビル"と言っているわけです。
これは後の「[6] 暗示・隠喩 〜ドン・キ法〜」でまた学ぶするので覚えておいてください。ぶっちゃけこの隠喩がダブル・ミーニングで最重要なんですがね。
――とまあこんな具合です。ダブル・ミーニングはここから累進していくんですね。累進ってのは加速度似の…つまり、数量が増えるほどに、それに加わる比率も増えてくってことです。初歩という、そのワケが分かりましたでしょうか。
というのも、このあと述べていく技法も、ひとことで言えば「1つの音で"ふたつ並んだイミ"」であることに変わりはないですからね。ただ、ここで言っている同音異義字というのは、ただ単語間での、同じ音の言葉ということです。
では次に行きましょう。
[2] ぎなた読み
このように区切りの箇所をえらぶことで、2つ並んだイミを作り出すものを俗にぎなた読みと言うそうです。
これに関して取り扱っている資料が日本だと幼児向けの本しかないあたり、この技法はひょっとすると若年層向けと思われるかもしれません。
しかしぶっちゃけたところ、この技は言ってしまえば2語連続した同音異義字といった極めて難易度高めなものなので、かなり使える状況というのが限られるものになります。
それでも、やり様によっては会心の一撃となるので、ここにその種明かしをさせていただきましょう。まずはこの二行から…
まず試料となる短文を思いつく必要があります。で、これが具体化したものなのですが…ナンセンスですね! nonsense! ここにはこれといった魅力性は感じられないと思います。
ですがここで重要なのは試料を得るってことです。例えばこの二行のばあい、
こういう構造が得られるはずです。はじめに思いついた適当な文章ではなく、それを分解して得られる構造こそが重要になります。このばあい一方の「かがみ」が生まれれば、しぜんと裏手である「か」に自動的に設定されるってわけですね。
そしてもうひとつ覚えておきたいのは、その名詞のきまりさえ押さえておけば、この盗られる/看取られるのダブルミーニングはいくらでも再利用できるってことです。
ではこの構造を使って、全く別のぎなた読みを作ってみましょう。こんなのはどうでしょうか。
むむ、どうやらさっきよりマシになりましたかね。先ほど手にいれた"「がみ」で終わる名詞 + 盗られる/看取られる "の構造から連想しているのが分かるでしょうか。
少なくとも蚊が看取られるよりはいくぶん現実的ではないでしょうか。このばあい、「はな"がみ"」という言葉を思いつくことで、もう一方の「はな」が自動的に設定されたわけです。
ではここから膨らませていきましょう。花というのは「会社の"ハナ"」など、女性のことも表せると考えられます。というわけでさらに言葉を付け足して、より成立できるようにしましょう。
このような具合です。ようやくそれっぽく成立するようになりましたね。一方では鼻紙を盗られ、もう一方で女王が亡くなるさまが描かれます。これぞ並行影記!
ではここからできうる限り装飾を増やしましょうか。どれどれ、こんなのはどうでしょう。
ラッパーっぽく押韻もキメてみました。いかがでしょうか。一方では彼女と映画でも見ながら、感動シーンにそなえてティッシュをそなえておく男が。もう一方ではまわりに見送られ、なんらかの悲劇的やり取りのあと女王が亡くなる…といった光景が見えてこないでしょうか?
このように、最初は小さかった試料であるソレが、付け足すことでよりおおきな芸術的なもの、促進を経た――すみわたった蒸留液となるってわけです。
そして頭の片隅にでも入れておいてほしいのは、これが音のみのばあい、この短文の発音がなされるのは真にいちどのみであり、そのうえでおそらく片側は詳細をスルーされ…回顧されない、繰り返されないということです。
ではもうひとつ挙げてみましょう。先ほどと同じような例になりますが、まずナンセンスでも試料となる二行を作ります。
ナンセンス! しかしここには貴重品たる構造が埋もれています。この出土品をみてみると、
こんなことが言えるんではないでしょうか。ではこの構造を使って、別のよりマシな名詞に入れかえていきましょう。こんなのはどうでしょうか。
いいですね。ではさらに付け足しましょう。
こんな具合です。一方では親友が亡くなって神に八つ当たりする様子が、もう一方ではいつも炊いてるメシが焼き上がる様子が見えてくるのではないでしょうか。
あ、ちなみに先ほどの「王子(ネピア)」や「同じ釜飯(を食うダチ)」のように、カッコの部分を省略することでも同音異義字、ダブル・ミーニングを作り出すことができます。
これもある意味でのLess is More精神のひとつで、つまり人間の「少なくなされた述懐に対して、より多く読取ろうとする」という能力を使った技になります。これも技法として覚えておいて損はないですね。
さてさきほどの短文に戻りましょう。終わり際に装飾をほどこして、より豊かな映像を描いてみることとします。そおれ!
いかがでしょうか。頼みの綱で治療に大金を投じるも、ウィルスで親友がこの世を発つ…という悲劇の一方で、片方の男性はのんきに米を炊いている、という映像が浮かぶでしょうか。
ではこのぎなた読みの作り方をまとめましょう。
こんな感じですかね。あらかじめ言った通り、幼児のころから触れられるくせにやたらと難易度は"高い高い"です。ですがそのぶん、できあがったときの感動味にはなんともいえない屈伏がありますよ。
では次の技法に移りましょう。
【 参考文献 】
[3] マトリョシ化 〜最小公訳〜
みなさん最大公約数というのは小中学校あたりで習ったかと思います。2つの数があるときに両方で割ることができる、いちばん大きな正数ってやつですね。
例えば45と69を並べると割ることができるのは3なので、最大公約数は3になるわけです。ちなみにこれが最小公約数となると、あらゆる数字が1という最小の整数でいなせるので、これは常に1となるわけです。
なんでこんな話をしたかというと、ダブル・ミーニング、つまりその本質というのは、この2つの単語を結びつける点、訳、つまり最小公訳を求めるということだからです。
そのためにどうしたらいいのかというと、出発点たる語句の連想からしていき、その事物を内包するものを、あたかもマトリョシカを取りだすがごとく並べていくのです。これを分かりやすい概念とするため、ここではマトリョシ化と呼んでおきましょう。
では例として…まずモンブランを見てみましょうか。モンブランというのはひらたく言えば甘栗の"ケーキ"ですよね。ではケーキというのはなんでしょう。"菓子"の枠組ですよね。では菓子というのは?
食べ物、こう表すこともできるのではないでしょうか。こんな具合にどんどんと連想していき、必須となる語の面々を、マインドマップのように繋げていくのです。マインドマップについて知らない方はググってください(投げやり)。あのタコ足でつなぐ作図方法ですね。
ちなみにマインドマップのはじめに大きな分岐があるように、モンブランから栗の実、果物といった感じで、別のほうで連想をすることもできます。重要なのは、そこから別の単語へと、共通するものを探すってことですね。
では並べた中から「菓子」を使ってみましょうか。例えばこんな風なのはどうでしょう。
こんな感じですね。もちろんここにはもうひとつの映像が含まれておりまして…
まず①生地/記事、菓子/歌詞の同音異義字、続いて②「焼く」はコピーする、転じて真似するという意味で使い、③「お腹痛くなる」は腹痛と笑いを、そして④2行目が、まるごとダブル・ミーニング(そしてその未到達ぶり)にひっかけた隠喩になってるわけです。
ではもうひとつ、この「菓子」より前に出た「ケーキ」で一本打ってみましょうか。こんな具合です…
なるほど、これは『ヘンゼルとグレーテル』の引用ってわけです。もちろんここにも並行影記が使われてるわけでして…
こうです。①ケーキ/刑期、食い/悔い、利口/履行、(成り)すます/済ます、尾行/鼻腔、不覚/深くが同音異義字であり、②グレーテル/グレてる、すん/吸うんは発音法でなんとかして、③パンくずは粉状たるアレ、その隠喩として使ってるわけですね。
そういうわけでして、たとえランダムな言葉を出発点としても、根気よく探していればいずれは同音異義字などが見つかるってわけですね。
またこの技法は、とくに隠喩を探すときに有効になります。例えば銃からはじまって筒を連想すると、その筒の形状からやすやすとタバコのシルエットが浮かんでくると思います。ここから、
ヘミングウェイっていうのは、あのショットガン咥えて自殺した小説家ですね。もちろんここで表しているのは、死んだ親友にタバコを咥えさせて、最期の一服をさせてあげているということなんですが…Sucker? はて、なんのことやら…
話を戻しましょう。あるいはさっきのケーキの言葉から、三角、あるいは皿上の円グラフという別の単語が浮かんでくるかもしれません。そこから"参画"という同音の異義や、あるいは屋根、槍先などのメタファーに移るのもいいでしょう。
このようにこのマトリョシ化、最小公訳において、影絵のような漠然とした形状の連想
は、映像表現上のメタファーとの親和性がきわめて高いのです。
なので、何も手がかりがないところから始めるとき、同音異義から始めるよりはこうした図的なもの…右脳力を活かした詩編。そのほうがよっぽどスムースにダブル・ミーニングが作れるかと思われます。では以上、マトリョシ化でした。
[4] ライミング・スラング
例えばマフィアモノで、その登場人物らが仲間にのみ通じる暗号文なんかを使っていたりすると、ああ…なんだか格好いいななんて思ったりするわけじゃないですか。まあ現実に帰還すると、そんなとこまず見かけないんですがね!
スラングの大元になっているのは、どうも大昔のヨーロッパの洞穴内に住んでいた、盗賊の一味に端を発しているらしく、現在と同じく、それが作られた目的というのも「監視者からの隠蔽」が主だそうです。
というわけでここには二重表現の糸口がありそうですね。じゃあこいつを使うには…ってわけなんですが、やり口にはいくつか手段があります。ひとつは辞典などに載っている古典、その引用をしてくるということ。そしてもうひとつは、自分たちで1からでっちあげるということです。
《1. 辞典や辞書サイトを開く》
ではまず古典の探しかたについて簡単に述べておきましょう。まずamazonに「隠語」と投げかけてみると、それっぽい辞典がいくつか見つかります。例えば明治時代とかまでさかのぼる900P近いものや、弁護士達へ書かれた(おもに犯罪者が使う)近現代の隠語帳です。
これらも良いっちゃいいのですが、まずこの太古の生活者のものにまでおよぶ書籍群、これは収録の量が多すぎて、使えそうな言葉が見つかるまで大変苦労します。おまけに同じ隠語が、年号をまたがっているという理由付で10回ぐらい重ねて出てきたりして、お目当ての品目に行きたいってのに妨害されたりするんですよね。
しかも既に消滅したとおぼしき埋没した隠語のなかで現代でも使えそうだなと思った言葉は、組織の隠語というよりはメタファーに近いものだったりするのです。例えば"金魚"という語は、炎を表す隠語だったそうで、他にも…
このようになっております。これは由来として「金魚 - 赤く揺らめくさまが炎のようだから」、「弁護士 - 幽霊のように被告の背後にいるから」、「ムカデ - 連結しているさまが汽車のようだから」、「舞台の下 - 奈落のように地下にあるよう見えるから」といった具合です。これは比喩から転じて隠語にしたものばかりですよね。
そして犯罪、賭博、水商売…を扱う隠語の目録もあるにはありますし、収録されている量も豊富なのですが、こういう単語の数々って、どうあがいてもダブル・ミーニングしたって裏社会の気配が臭ってしまうし、ガチで排斥された人たちはそれをどう思うでしょうか、ということなんですよね。
これはそういうものを良しとしないプレイヤーにとってはもちろん致命的ですし、さいあくカステラの法則のように、その手の住人たちを身近に招き寄せかねないわけじゃないですか。望もうと望むまいと。ある意味じゃ、それこそニッポンでこういったダブル・ミーニングが栄えなかった理由なんじゃないかと思います。
なのでこういった辞典などをあてにするときは、それら隠喩をつかうさいの根拠をふやす、という用途のみで使ったほうがいいと思われますね。それに、実用例があるのに辞典には載ってない、ということもありますので。
例えば「カブトムシ」という文字、一方ではドイツ製の車であるBeetleを表すそうですし、またある一方ではその角をアンテナに見たてて携帯電話を表すことに用いたりもします。今ここでロックバンドであるビートルズを示す符牒(ふちょう)語に仕立てあげてもいいでしょう(符牒ってのは同盟間でつかう暗号ってことです)。まあでも、この辞典には載ってないんですよね。
とまあこんな感じで、こういった語録をつかうなら暗黒面に落ちるつもりで加えたほうがいいですね(関心ある方であれば止めはしないですがね)。
【 参考文献 】
《2.コックニー・ライミング・スラング》
さてこっからが面白いところなんですがーー先ほど「現代に通じるような過去の隠語は、暗喩のものばかり」と述べましたね。では暗喩にふくまれない単語ってどう作ればいいのでしょう?
世界を見渡すと、それはそれは分かりやすく利便性に富んだ製法ってのがあったりします。ここで紹介するのは、産業革命期のころより英国首都圏で用いられた、コックニー・ライミング・スラング(Cockney Rhyming Slang)という方法ですね。
これはどういうものか。これは単語を単語たらしめている同一の母音を使って、ちがう文字にすりかえ、まったく関係のない意味に変えるものになります。
例えば有名どころでは「Dog and Bone(犬と骨)」という言葉があるんですが、これはイギリス(というよりロンドンはイーストエンド、St.Mary-le-Bow教会の鐘の音が聞こえる範囲)において"電話(Phone)"を意味します。「Dog and Bone(犬と骨)」が「Phone(電話)」を意味するようになるのです。ではどうやってそれに至ったかというと…
こういった順序によって単語を生成しているんですって! ビックリですね。なので「Run up the stairs(階段を駆け上がれ)」は…
こういう風になるんですね。なんとも意味不明ですが、しかし特定の集団で交わすことのできる隠語群が、こうもたやすく作れるわけです。
面白いことに、このライミングスラングは人名まで使われることがままあるらしく、例えばブランデー(Brandy)がマハトマ・ガンディ(Mahatma Gandhi)に化けたり、携帯(Mobi)がオビ・ワン・ケノービ(Obi-Wan Kenobi)になったりするとのことらしいのです。
さらにややこしいのが、この母音の大元になる品目がさらに隠蔽されているパターンもあるのです。
例えば「Not on your life」という言葉は「そんなのあり得ない!」という意味なんですが、まずこのlifeが慣用であるBreath of Life(欠かせないもの)と韻を踏みます。で、このBreathと同じであるPuffが取って代わったあと、さらにこのPuffと韻を踏む刺客、Nellie Duffがあらわれ、なんと果てには「Not on your Nellie」となるわけです。もうこうなると呆気にとられますね。
ではさっそく、日本語版をこの方法でやってみましょうか。まずは隠したい言葉を選びます。ヤクザもカーチャンも隠したいでしょうから…ここでは"金(カネ)"にしましょうか。では対応をする母音の言葉を…
こうです。なんて気楽なんでしょう! ではこんどは人の名字を介してもう少しやってみましょう。隠す語は"賭博"とします。
こんな具合です。あらゆる国で使える技法…うーん、このコックニー・ライミング・スラングというのは便利ですね!
ただひとつ注意しておきたいのは、例えばこれをアーティストがなんの説明もなしに繰り出してきたとき、リスナーや読者はなんのこっちゃと混乱することは免れないってことです。
なので、こういうライミング・スラングを使う際には、あらかじめそういった隠語群を共有するなり、作品前後で種明かしするなり、なんらかの策を講じることを忘れないでおきたいですね。でないと、匙加減ひとつによっては独りよがりなものにもなってしまいますから。
つーわけでライミング・スラング編でした。次いきましょう。
【 参考文献 】
[5] あてこすり・婉曲 〜ぶぶづ形〜
婉曲(えんきょく)という表現のしかたがあるのはもうお知りでしょう。直接的と感じられるものを、遠回し、回りクドいものに置きかえるというやつですね。
分かりやすくよく知られている例としては、京の語調としてよく挙げられているコレが当てはまります。
これは言わずもがな「そろそろお帰りください」を意味するわけですが、よくよく見るとここには、
というふたつ並んだイミが見て取れるんですよね。このように反語、皮肉的、あてこすり、婉曲といった表現は、つまり使いようによってダブル・ミーニングとしてあつかえるわけなのです。
なめらかである心地と、サラリとした手触りがいちどに味わえる。これを知識に浸透させるため、ここでは仮に"ぶぶづ形"とでも命名しておきましょう。
それではこのぶぶづ形にはいったいどういうものがあるのか、これから見ていくことにしましょう。ぶぶづけから銘打っているとはいえ、ここにあるのは必ずしも京のかたがつかう仕草にとどまらないことをご了承ください。
《1. 誇張(こちょう)、緩徐(かんじょ)》
まずはじめはこちらですね。ふだん耳にしづらい単語群ですが、こちらの誇張(こちょう)は"おおげさであること"、そして緩徐(かんじょ)は"ひかえめであること"をそれぞれ意味しています。
ひとつ例を挙げてみましょうか。ではここでは、突然、大雨が降ってきたという状況だとします。そこでこれらの表現を使うばあいは…
どうでしょうか。どちらも「大雨が降っている」という光景に対し、すこし言葉を外してはいますよね。これが"誇張というおおげさ、緩徐というひかえめ"になります。
そしてこのどちらであったとして、冗談も冗談であり、ここには道しるべがふた通りあるというのはなんとなく分かると思います。つまりどっちでもダブル・ミーニングを噛ませられる。
では次に移りましょう。あまりこころよくないこちらの概念をば。
《2. うわごと調》
《1》と似ているようでまったく違う、なぜか我々が違うものだと認知できるものに"虚言(きょげん)"があります。ここでは分かりやすく覚えやすい形にしたいので、"うわごと調"とでも名付けておきましょうか。
ではこの狭間にはいったいどんな違いがあるのか? テストの返却がなされる、という場合で見ていくことにしましょう。
これは放言だと分かると思いますが、はたしてなぜ我々はそうと分かるのでしょう。次を見てみます。
こちらも事実を示してはいないですよね。むむ、どうやらこれは難問のようです。ではこの場合はどうでしょう。
お分かりでしょうか。どういうわけか、この場合ですと嘘ではなく、それが婉曲を混ぜた談笑であると理解できると思います。ではなぜそうと感じるのでしょう。
実はこういった表現がただの心ない放言か、はたまた"機知(きち)"に富んだぶぶづ形かというのには、いくつかの条件によって分かれます。
まず押さえるべきなのは、①お互いが判断材料を分かっていて、認識している ということです。3つあるうちのひとつめの例では、Bはそれが6点であることを知らないですよね。
よって、このシチュエーションを擬似的、体験として見ると、つまりB寄りに立った配慮をおこたると、これはただ単に事実を歪めているということになるわけです。
ではふたつめはどうでしょう? こちらは正しいことを共有しているにも関わらず、どういうわけか嘘のようにもとらえられますよね。
ここでもうひとつの条件、②具体的でなくすることで仮設させる(する) が現れます。ちょっと難しいので書いていきましょう。
たとえば点数でいうと、100点は100点、6点は6点であり、ほかの点は表せないですよね。でもこれが"最高"となった場合、それは「ああ、おおよそ高い点数なんだな」という"仮設"になるわけなんですね。
人間にはそれぞれ尺度のめやすがあって、量的な問題をはかるさい、お互いに合致するような境界線が引いてあるときは稀だったりします。テストの点において、いわゆる"サイコー"にある尺度というのは人によって85点以上であったり、あるいは70点以上とかだったりするかもしれません。それぞれの他者にとって何が基準なのかなんて、キッチリとは分からないわけです。
各自、それが無意識的にそうと分かっている、なので、「最高だったよ!」と言われた時、「(ああ、75点以上なんだな)」とか具体的に断定せず、「(おおむね高い点数なんだろう)」という仮設になるわけです。
ここまで来てはじめて、はじめに述べた誇張、緩徐を使った③相手方の仮設をうらぎる ができるわけですね。テストの例のふたつめではこの仮設がなく、「(あ、90点なんだ)」とかそういうあやまった事実の認知で"止まっている"ので、③が発動に至らないんですよ。
まとめましょう。これらのぶぶづ形が活かされるためには…
この手順が求められるんですね。 大雨に対して「良い天気だな!」言うときは、
こうなるわけなんです。ここでこの②を見てほしいんですが、なぜわざわざ"予想"でなく"仮設"としたかというのが分かるでしょうか。
この悪天候の例文でいくとわかる通り、先の予想というのは整頓された文章によるものであって、こういう"無意識下の勝手"くんがした用意というものに"予想"というのは合ってないんじゃないかと。
なのでここでは、正確性を得るために、あえてまどろっこしい仮設という単語を使わせていただきました。
そして京都人のぶぶづけに関しても…
こうです。鈍感だったりするとこの①がすっぽ抜けたりするので、このコミュニケーションが成立しなくなってしまうんですね。
そしてこれもよくすっぽ抜けがちなのに大事なことなんですが、つまり具体性がない領域を扱うのであれば、まずなにが冗談で、なにが限度であるかを分かってないといけないってことでもあります。
だからこそ、なにをどう"無意識下の勝手"くんが処理するのか。それを分析にかけないといけないんですよね。
いけないんですよね...............…
これが誇張・緩徐ができるときと、そうでないときの差ですね。ちなみにあてこすりなど、皮肉的なものを扱う場合も、この3点セットを考慮するのが大切になってくるので覚えておきましょう。
では終わりに、このぶぶづ形を使った並行影記のやり方をここに載せておきます。まあほかの技法と同じで、いまある文章にさらに意味合いを継ぎ足していく形になります。
使いまわしになりますがこの例ですね。ではここに、あらたな文脈を重ねていきましょう。ここでは既に「悪い天気」という状況に対する反語が生まれているので、こんどはこのセリフ「なんて良い天気だ!」がじっさい主役にとって良い天気である状況を考えます。
例えば…そうですね、独白しているAには敵対しているBがいて、この大雨がBにとって悲劇的で、Aが喜んでいる、というのはどうでしょうか。そしてシチュエーションは墓参りということにします。するとどうでしょう。
どうですかね。ぶぶづ形に生まれた婉曲的な言葉が、キチンと2通りの映像を描いていますよね。ついでなので頬に雨が落ちるとこも足しておきました。
おさらいになりますが、このようにダブルミーニング作りで求められるのは、"求めている状態"という半身と、それを補うために"逆算する"ことなんですね。そこで韻を踏もうと踏むまいと、この並行影記にはこのような動作が伴うのです。
以上、ぶぶづ形の使い方でした。ではラスト、このダブルミーニングにおいて最重要たる概念へと行ってみましょう。
【 参考文献 】
[6] 暗示・隠喩 〜ドン・キ法〜
みなさん『ドン・キホーテ』はご存知でしょうか。拙者はついこないだまでその概要を存じ上げなかったのですが、なんでも老年期であるドン・キホーテが騎士道精神の書物を読みふけりすぎて、しまいにはみずからを騎士その人であると思い込み、仲間達をつれて珍奇な旅に出る、という始まり方だそうです。
よく知られる風車のくだりというのも、みずからを騎士道に生きていると強く思い込んだ、という前提の元に、風車を巨人に見立て、戦いを挑んだそうですね。他にも、羊の集団を軍隊であると見なすなど。
面白いのは、この風車のくだりに対して、のちの読者たちはそれをなにかの隠喩、だと思いこんで、ぞれぞれが欲しい隠喩を勝手に投じはじめたんですね。解説本なんかを見てみると、そこには資本主義批判だのカトリックの教徒に向けた擁護が暗に示されている、などと踊っているとか。
つまり読者であった彼たち自体が、ある意味ではドン・キホーテと化してしまった、と言えなくもないのです。
では真相はどうかというと、この『ドン・キホーテ』を書いたミゲル・デ・セルバンテスの経歴というのは…全盛期にあったスペイン軍に若くして仕えたのち、そのスペインの栄枯盛衰を目の当たりにしながら、みずからも凋落しつつあるのを感じとる…というもの。そして出てくるエピソードエピソードに、数おおくの作者の実体験が盛り込まれているのです。
ここから、このドン・キホーテという主人公はかつてのスペイン国、ないしはそこで身を粉にして働き、スペイン国とみずからを同様視していた作家の本人がメタファーとして表現されている…と見るのが研究者の見解のようです。
ここで言いたいことのひとつは、隠喩という変数は、基準となる全体がないことにはなんでもかんでも入れほうだいで"答え"を失ってしまうってことなんです。ここでいう答えっていうのは、間違いなく意図して生まれた二面性のことです。
逆に言えばそれだけ隠喩というのがあらゆる状況下、そこで適応しやすいってことなんですが、まあそれだけ扱いが難しいってことなのです。
そしてもう片方にある有用性は――ちょっとズレるんですが、スラングのとこで話した通り、同音異義字をのぞいたふたつの意味がならぶ言葉というのは、その多くが犯罪者や賭博など後ろめたい界隈にまつわるものであふれているのです。
なのでHIPHOPなどにおいてダブルミーニングをしようと思った時に必ず引っかかるのは、この犯罪者がやってくる原因とか、あるいは帰属の先から浮いた同人のイキリになりかねないということなんです。
その点、メタファーの表現というのはそれら汚れたスラングを使わずとも多くを映写し、重厚な含蓄に富ませることができますし、例えばギャングスタの歌曲がアメリカほど市民権を得られないこの日本において、精巧なダブル・ミーニングを与えてくれる画期的方法となりうるのです。
そんなわけでこの項では、いくつかの古典を引っ張ってきて、文章内において隠喩とはどう使われるべきかを見ていきたいと思います。
【 参考文献 】
《1. カフカ『変身』》
グレゴール・ザムザ男性はある日、目が覚めると自らが大きな毒虫になっていることに気がついた――という衝撃的な書出しで始まる本作。
扉を開けるまで心配していた家族の面々も、その姿を見るやいなや手のひら返しをしはじめ、なんなら主人公が死んだあとは清々したとばかりピクニックにまで出かけるしまつ。
読者はこの毒虫に変わった哀れな男性に自らを重ね合わせたり、なんらかの隠喩的な…例えば「これはATMと化した大黒柱どもの末路を表しているんだ!」などと嘆き悲しんでみせたりするのです。
まあそれはそれでいいんですが…本件について述べておきたいのは、この作からくみ取れる隠喩、つまり「毒虫とは"なにが変身したものか?"」という探り…これは並行影記という技法においては無駄ってことです。
なぜかを見ていきましょう。ひとつは、この作で主人公は毒虫になるわけですが、それは小説のはじまりから毒虫であり、最後まで毒虫のままです。
そしてもうひとつは、この『変身』という小説が、全体を通してこの毒虫をめぐるものとして書かれているということ。
つまりどういうことかというと、毒虫が毒虫のまま、つまり一貫して比喩ではなく現実の事実として進められていくので、それはなんら映像として二面性を持たないってことなんです。
これがもし「毒虫になった"という強迫観念を覚えた"」とはじめたとしたら、あいまに挟まれる昆虫になったカラダのくだりを隠喩と捉えても、その隠喩というのは小説内のみで扱われる命題…
つまりトイメンにある読者であり、思込みを押しつける読者が生み出す隠喩ではないということです。メタの構造をはぶいた、小説内という全体の部分的なもののみにおける隠喩になるわけです。
するとそのうち読者は「これは確かに主人公に起きているのか、それともただの幻覚的なものか?」と考える、つまりそこにマジック・リアリズムのような混沌と、並行である面が生まれる。
ダブル・ミーニング、並行筆記において、この"小説内という全体の部分的なもの"と、メタの構造という"延長にある読者"とをキッパリと分ける…というのはかなり大事なんですよね。
で、それを分けへだてる鏡を暗に示すキーワードが要る、というのも覚えておいてください。この例でいうと "という強迫観念を覚えた" の部分ですね。
原作たる『変身』ではこの毒虫という概念が…隠喩、変数として読者でいくらでも論争できるという状態になっていたわけです。なんだったら、この毒虫にたいして"落ちぶれる先進国"を読み取ってもいいわけですよ。それを認めるならですが。
それが新たに付けたした"強迫観念"のものになると、毒虫になったカラダというのが、作家の方であらかじめ人物画の瓶としてこしらえた変数を用いて、解釈のひとつを取りだすわけです。つまりグレゴール・ザムザの解釈法として、作家自体で毒虫を選んだということになるわけです。
これで読み手による同人誌のおしつけが迫害される反面、さきほどの『ドン・キホーテ』でいう「風車を資本主義やカトリッククソデカ人形としてとらえる」のようなナンセンスがおきづらくなるのです。だってその隠喩という容器は、はじめから主人公における設定として…つまりあらかじめ作家の趣旨が、占有している!
二重であるものに"これは抽象的である"とする認識、それじたいが抽象的なのであって、この並行影記において読み取れる映像は具体的でなければならない、というのはだいぶ前にお話したとおりです。なのでこうした手段を用いて、「その表裏に"映像の明確さ"が足されているか?」、それは作者が決めなくちゃいけないのです。
というわけで、二重表現の作成において隠喩を用いるときは、以下のことに気をつけてください。
かな〜りややこしく難解なんですが、これを踏まえると、創作におけるひとりよがりを解消できるかと思います。
これは例えならば、平易な語彙群で書かれた大衆楽曲を、哲学や形而上学を使ったつもりで褒めそやす提灯記事のようなナンセンスを避けろってことです。
メタファーの解釈が著作物それそのものを超えることはあってはならないのですよ。
【 参考文献 】
《2. ヘミングウェイ『日はまた昇る』》
アメリカが生んだ文豪中の文豪、アーネスト・ミラー・ヘミングウェイはご存知でしょう。ハードボイルドと呼ばれる作風のなかでも特に彼を表しているのが、そのすりきりで注がれたショット・グラスのウォトカを思わせる、ゆえ"なんども味わうべき"極小の文体です。
俺はこうした。彼はそうした。言いようによれば簡素な描写をつづけ、交わされる会話も短いことが多いです。読書があんまりという方でも読める、と書くとお子様向けと捉えられるかもしれませんが…それは違います。
彼が世界的文豪と評されるもっとも大きな理由は、その「少ない記述で、より多くの深淵を語る」という"氷山"(つまり氷山の大部分は海面に埋もれている)の理論にあります。
それを引き出すために彼はあらゆる方法を用いるんですが…もちろん、隠喩だってその道具に含まれます。では代表作である『日はまた昇る(原題:The Sun Also Rises』、その中でも圧巻の第十七章から、例を見ていきましょう。
まずはここですね。新鮮な気持ちを"よその町でのフットボールの試合を終えて、家に帰ってきたような気分だった"と表しているんですが、この後の太字部です。
ここでヘミングウェイは、しれっと比喩表現からメタファーへとすり替えているんですよね。そしてこのノリは次の段落へと引き継がれます。
ここ"実際にスーツケースをさげているような気がした"では現実とごっちゃにならないように、あくまで主人公の気分を表すメタファーであると補足してありますね。明るい気持ちであることをさらに強調するために、"部屋には明かりがともっていた"とも書き添えてあります。
そしてホテルについたあと、友人であるビルに、コーンという人物に会うよう促されます。どうやら乗り気ではないようですね。問題はこのあとです。
これですよ。まずこの"幻のスーツケース"という表現。これはもちろんスーツケースがあくまでメタファーによる代物でしかないことを言ってるんですが、同時に「いい気分、新鮮な気持ち」の象徴だったスーツケースが、この瞬間に"幻と化してしまった"ことをダブル・ミーニングで表しているんですね。
でさらに面白いのが、部屋に入ってこの気持ちの象徴たるスーツケースを降ろし、なおかつ、同じく気持ちの象徴たる部屋の明りが消えてるんですね。
もう病みつきですよ。ただ黙々と移動して、会いたくないヤツに会いに行くという明快なくだりが、このメタファーとしてのスーツケースを加えるだけで、ここまで面白い表現になるんですから。これこそ、メタファー使いの好例と言えるでしょう。
【 参考文献 】
さてこの第十七章では、物語が大きく進むことになります。そもそもこの小説の本筋はというと、ざっくり言えば「野郎集団数名が、渓流での釣りやスペインの闘牛を楽しんでるうちに、取り巻いてたサークルクラッシャー気質の女性(ブレット)によってバラバラになる」というもの(※すごく雑です)。
で、この女に片思いをしていた男(コーン)というのが、観戦に向かっていた、その若い闘牛士とケンカするのです。というのも、この闘牛士と女がいい感じになっていたからなんですね。ではそこから物語がどうなるのか見ていきましょう。
まずこの闘牛というのが、町はずれから闘牛場へと駆け込み、闘技場へなだれ込む群衆を追いかけるというくだりがあるのですが、ここからすでにメタファーの種が撒かれているのです…
太字部のとこを覚えておいて欲しいですね。重要なのは、別にこの段階では、これがメタファーか何かであるとはほのめかされてすらいないということです。
さて、このシーンのしばらくあと、前述したケンカのくだりが起きます。次に続くのは、その事がおわった後の、また聞きの会話ですね。
とまあこんな具合で、男コーンが、外野たる闘牛士に負けてしまうんですね。こうしてグループから彼はおわれてしまうのです。
第十七章はこうして幕を閉じることになるわけですが、この最後の締めくくりが素晴らしいんですよ。会話は別の男、ブレットと婚約目前であるマイクのまったく関係ない話についてへと移るんですが…
作家のくわだてた画策によって、このマイクに関する話が、そのままコーンと闘牛士によるケンカのメタファーになってるんですね。そして最後の最後で、あのエンシエロ(牛追い)のくだりが回想されることになるのです。つまり、"闘牛(ブレット)"をいなそうとした"二人の若者(コーンと闘牛士)"が現れ、その片方側がその両角で命を落としてしまう――というシーン。なんら重層表現をもたなかった描写が、加筆の情報によって、メタファーと化し…つまり
並行影記へと姿を変えたわけです。
さすが氷山を繰る天才をもつ男、ヘミングウェイ。たった一章のうちに、ここまで複雑味をもった味わい深いメタファーを含ませるとは。
彼はとにかく用意周到なメタファーを織り交ぜることに長けているので、この技法を学ぼうと思ったら、彼の著作は残さずチェックしておいたほうがいいですね。
さて最後に、そんな彼のメタファーとは違う、もうひとつの氷山を見ていきましょう。
《3. 底流のサブ・テキスト》
サブテキストという概念はご存知でしょうか。これは演劇の演出や映画内など、あらゆる媒体でよく使われる手法になります。テキスト表面で書かれているのとは違う物事が進んでいる…といったもの。どっかで聞いたことありますね。
例えば職場にいる人なんかと「いやあ、内面って重要ですよね」と話すとき、目を見て言うのと時計を見て言うのでは、捉え方が変わってきますよね。
前者ではコミュニケーションをしたがっているのに対して、後者はどことなく「(早く終わらせてーなこの会話)」という雰囲気が漂ってくるかと思います。自分はもっぱら、ある種の配慮が行き届いてるので後手っかわなんですが。
ざっくりいうとこれがサブテキストです。これまでに述べた"氷山"の方策に含められるのが分かるでしょう。
ではそんなサブテキストを、ヘミングウェイはどう操っているのか…『日はまた昇る』のラストシーンを最後に見ていきましょう。
実は主人公のジェイクは第一次世界大戦に従軍したとき、怪我により性的不能に陥っております。そんな彼もブレットに劣情を抱いていたわけですが、そんなわけから欲望を成就できないままとなっておりました。
そのあと先ほど引用したようなくだりがありまして、グループはばらばらになってしまいます。で、そのあとブレットは件の闘牛士と駆け落ちしたあげく、葛藤のあと身を引きます。
そのころジェイクは事件の後あちこちぶらぶらしたり、ひとりビーチで泳いだりしていたのですが、ここでブレットから電報が。困っているからホテルに来てほしい、とのこと。
そこからのくだりがこちらです。
この太字部です。ここで自分に言い聞かせている彼は、明らかにこの一連の流れを快く思っていない。そしてそれを補足するように、行きの列車での眠りは浅いのです。
さてホテルに到着したジェイクですが――ここでちょっと前にご紹介したメタファーである"スーツケース"が再びお目見えします。彼はホテルのメイドとこんなやり取りを交わします…
ここでメタファーとしてのスーツケースが"彼の気分"だったのは覚えているでしょう。で、彼は心配性さながらに、ここでいくどもスーツケースをブレットの部屋へと運ぶよう要求するのです。これはこの流れが良くないと思いつつも、なんだかんだ期待しちゃってるジェイク氏の心が表れているといって良いでしょう。
さてそうしてブレットの部屋を訪れたジェイクですが、告げられたのは闘牛士と別れたこと、そして想定外なことに、婚約間近だったマイクのもとへ、戻ることを決意したことでした。
ジェイクはどう思っているか…それは活字として明瞭には残されません。ですが、次のブレットと飲食店に足を運ぶシーンはこのように続きます。
どうでしょう、どうも彼はやや感情を抑えるために、やけ酒に走っていると見えなくもないのではないでしょうか?
そして食べ終えたあと、彼らはタクシーでマドリードを見て回ることにします。そこで物語は終わるんですが、最後のしめくくり、これがたまらなく印象的なんですよね。
ここには性的不能者であるにも関わらず、肉欲を掻きたてられることへの皮肉が、そしてすべての後で、感情の板挟みになっている彼のなんとも言えない心のありようが、この一言で実を結んでいますよね。
これこそがサブテキストの深みなんですよ。確かに氷山のように、その露出しているものよりはるかに大きなものが、その海面下に埋もれているのです。
そしてこれもまた、表面とは違うところで物語が動いている、という並行影記を、より詩的なものへとする職人技のひとつとなり得るのですよね。
ではおさらいがてら、メタファーを使って最後にひとつ作ってみました。出来が悪いですが、参考までに…
場末にある工場の労働者をイメージしてみました。後半4小節が、アヘン戦争に掛けたメタファーになっているんですけど…どうでしょう、そっちのメタファーに影響されて、前半4小節がそのままアヘン戦争のことを描いてるようにも読めますかね。
で、上喜撰/蒸気船のとこは言わずもがな、最後の"火炎筒の鉄瓶"のところもダブルミーニングにしているつもりです。つまり、阿片のパイプと、ヤク中を掃討しにきた軍人というように…まあ前述した通り、"説明するのはヤボ"なんですが。
これはカフカの項で話したメタファーを使う上での3つの条項にのっとっております。①「全体の部分的」はここだと下4小節が、②「キーワード」はここだと"過去の再現"がスイッチになってますよね。で、③の変数、そこに入れる隠喩は「阿片戦争」という具合です。
ちょっと出来のいいものがお見せできないのが申し訳ないんですが、ざっくり言うとこんな感じです。
【 参考文献 】
3.そして展開させる
さてこれで、自分が知りうる限りすべての技法をご紹介しました。
さてこれらの技法を使って、いよいよ作品づくりとなるわけですが、あいにく日本にはこれらをフル活用した、それも芸術級のものというのは、まだないように思われます。
アメリカにいるeMCに至っては、これらに加えてマルチ・ライムという縛りのもとやってのけているので、日本のシーンがまだまだ計り知れないほどの伸びしろ、金銀の鉱脈を隠しているのは明らかというものでしょう。
ここに並べた多くの技術論から「あれ、もしかして…日本でも、もっとワクワクするような言葉遊びができるんじゃないか?」そういう新鮮なひらめきを感じ取っていただけたら、もう言うことはありませんね。
そしてもう一度言っておきたいんですが、これらの並行影記というのは、まずコミュニティやインタビュー、SNSでも大っぴらに語られることはありません。そのほうが格好がつくからですね! なのでこの分野がいくたびかの発展を遂げようと、それは静かに語られることとなるのでしょう。
そして締めくくりとして――自分は社会というものに出たことがありません。遊び呆けて、この30年という歳月を過ごしてきました。なので一般の教養だとか、常識だとか、マナー講師が教える独善的処世対処療法とかいったものがサッパリ分からりません。それこそ拙者にとって暗号のたぐいや、探究を尽くしたダブル・ミーニングのように確証が得られないものなのです。
それに周囲が大人になればなるほど、あまり直接的には言ってこなくなります(それって失礼ですから――)。だから世間との乖離は、いつの間にか漏出していた体臭のように、自分には認知できないものになってしまったんですよね。
だから最後、この場を借りて、馬鹿正直の村を代表して、あえてこう言わせていただきたいです。わたしはダブル・ミーニングなんて嫌いだよ!
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