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日記|文字禍LDIスウォーター


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カルディでコーヒー豆を買う。
店員さんが皆快活で良かった。
会計時の受け答え時、相手のテンションにつられることが多い。なだらかな口振りで対応してもらうと落ち着いた口調で応答し、深夜帯の店員さんが出す疲れぎみの声色にはボソボソと返答する、といった感じ。その店員さんが凄くハキハキと対応するのにつられてなのか、自分の声のトーンも高くなった。普段言い淀むコーヒー豆の種類もうまく伝わった。気がする。


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円城塔『文字渦』を読んでいる。小説への苦手意識を改善しようと買ったが、訥々とした調子で文章を頭の中で読み上げてはじめて意味を理解する読み方(なんとも低次元な読み方だ)だと頭が沸騰する。
中島敦『文字禍』のもじりであることは何かしらの意図を含んだものだろう。先の見えない程の暗闇に囲まれながら埃っぽい巨大な建築物を歩く、そんな気分になる文章はどちらにも共通している。


小説に苦手意識を持ったのは中学生の頃だと思う。
たぶん「感想」や「批評」という言葉を覚えてから読書に後ろめたさが生まれたのだろう。
質の高い批評が出来るのは、ある書籍をぺんぺん草も生えないほど食べきって反芻した者だけだ。読破のみを気にしていた自分は、何を読んでも表層的なことしか本について語れなかった。

思うに批評は、事物や物語への数多くの分析から、一つを特別に抜き出して価値付ける運動である。
いくら頭のいい人であろうと、ある物語の多義性に一回程度の通読では向き合いきれないはずで、分析がちゃんと形を成すためには精読を繰り返すことが不可欠だ。しかも、そこから一つを特別に取り出す働きに知識の多少はほとんど関係しない。

厳密な哲学書はむしろ読むのに気後れしない。まあムズすぎて投げるものも多いけれど。
そういった種の文章は分析による理解が主となり、それ以上読者がその文章に担うものはないから。

こう難しく書いたわけだが、批評はそこまで高尚な営みではない。二次創作も批評と似ている。
原典に備わる解釈の多様性にもたれかかりながら、ある表現や描写を取り上げて「オモシロイネッ」とはしゃぐ運動も批評といえば批評なのかも。

さらに考えてみるなら、映画レビューに星をつける行為は批評ではなく、批判であると思う。
星1〜星5の形式はサイトが勝手に持ち出してきたやつなので。あの数字ほど無機的なものはない。


分析、批評、感想、判断の使い分けに自分ルールを持ちたいな。制作物の鑑賞は一元的なものではないんじゃないと思うけれど。どうやろ。


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市販のカルピスウォーター。販売会社のアサヒ飲料が原液を割るのに使う水を飲みたいと考えた。
調べてみたら、ただ水で割っているということではないそうだ。そらそうじゃん。


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働きたくない。
はたらきたくない。
ハタラキタクナイ。

毎回決まった時間に就労し、少なくとも四時間近く勾留されると考えてもみろ。ヤダよ無理だよ。
スケジューリングが超絶苦手。
部活動やる気なかったのも宿題全然出せないのも、未来の自分を半分どうでもいいと思っているから。

未来、どうでも良い。
みらい、どうでもいい。
ミライ、ドウデモイイ。




【嘘】
花言葉を逐一知っているがゆえに、街路を歩くたび花どもに責められ、ふさぎ込んでしまった人がいる


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