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わりと日刊だらく[No.40]〜シンクロとメルト〜
今日もテキトーにやっていきます。
今日の散文
シンクロとメルト
これは、わりと最近、僕の中で言語化された概念、身体感覚のカタ、分類である。
あまりうまく言語化できないと思うが、なんとなくダラダラとその定義らしきものを書いていく。
シンクロとは、「世界と一体化すること」である。
感覚的、快楽的に言うと、ダウナーな感じ。ジワーッとした感じ。起伏が激しくなくアナログで微弱な電流が流れている感じ。
僕の体験で言えば、シンクロは、散歩をしている時、雲を眺めている時、音楽を聴いている時などに起こる。また、バイクや車に乗っている時はすごく良いシンクロを感じられたりする。
散歩によってその効果を強めたりする。血流や脳への振動が良い説がある。
自分の感覚を開くことがシンクロである。
認知の歪みがなく、それによって不快が起きたりしない。不快であることを拒んでいない、そのまま受け入れている。強烈な痛みが起きたら維持できないとは思うが。
何かのスポーツの試合で極限まで集中している時、確実にシンクロは起きていると考える。
メルトとは、快楽物質が強烈に全身に流れることである。薬物は使用してはならない、自分でコントロールできる範囲のナチュラル脳内ドラッグ。
刺激が非常に強い。
映画を見て感動した時の感じ、音楽などでも良い。ひたすら強烈に全身に広がるもの。
僕は意識的にその強烈な快楽を引き起こすことができるので、いつでもこれが可能。
メルトによって無理矢理全身に刺激を与えられるので、ジワジワと体を起こすよりもこれによってサクッと全身の感覚を起こしてしまうと、シンクロの前の感覚の立ち上げが楽になる気がしている。気がしているだけで本当にそうなのかは良くわかってない。
シンクロしている時にメルトすることは可能。
メルトしている時にシンクロすることは不可能。どうしても強い刺激が全身に与えられている時は、ある種の鈍感さが発生する。
これを読んでいるあなたは僕が何を言ってるのかわからないかもしれないが、僕も書いてて何を言っているのかよくわかっていないので安心して欲しい。
ただ、そういう区別、特に「メルト」という概念ができその名前を与えられたことによって、日常の身体感覚のコントロールなどに良い影響が出てきている。
名前を与えるというのは重要だ。
認識できるものすべてに名前をつけよう。
音楽
ギターソロが好きすぎる。
一人組
くらがりチャレンジ
なし。
贈与
なし。
パブリックを思い出す
やった。
小休憩
やった。今日はナチュラルな脱力が強まっていた気がするんだけど、そのおかげかそんなに休まなくて平気だった。
超小休憩
やった。
観察と感想
やった。
愛を思い出す
やった。
本とお話しする
これからやる。
死を思い出す
やった。
人生の物語をイメージする
通りすがりのおじさんが家に帰った後にどんな生活をしているかを想像した。
終わりに
明日は雪で仕事を休みにするので、色々やろうと思う。
在宅ワークについて考えを深めたい。
今後の展望を眺められる良い日にしたい。
今日も良き日であった。
明日はもっといい日になるよね、有象無象。
ほんじゃ、また、あした。
良い夜を。