わりと日刊だらく[No.257]〜恋愛論、理想論、人生論的なこと。ぐちゃぐちゃに愚かに書いてみる〜


最近、「自分との対話」について思うところがあった。

僕は無意識に自分の考えたくないことを避けている。思考において使わない言葉を選択している。ある文章を避けようとしている。そういう自分に気づいた。だから、もっと愚かに文章を書こうと思う。

汚いことも、危険な考えも、何も考えずに、間違えることを目的にして書こうと思う。

(すんげー大量に僕の話が書いてある)



なんでこの世界は完璧になってくれねえんだ。ってたぶんいつも思ってる。でもそれを言葉にしても何も解決しないから、具体的な問題に言葉を押し込んでる。でも、具体的な問題を解決したって、人生という問題は何も解決しない。

ちょっと幸せな生活が送れていたって、またすぐに崩れちまう。安全運転しててもプリウスミサイルが反対車線から飛んでくるような感じで、まともにやってた善良なやつでもいきなりその日常は奪われる。嫌な世界だな、全部なくなってしまえばいいのに。そしたらそんな嫌なことは起こらないから。


そんな完璧な世界を望み始めたのは、失恋がキッカケだった。僕はキスがめちゃくちゃ好きだった。授業をサボって誰もいない屋上の階段の前で夢中でキスをした。初めてのキスはディープキスだった。ディープキスという単語はたぶん知らなくて、本能的に舌をいれたくなった。その方が気持ちいいって思ったから入れたら、めちゃくちゃ気持ちよかった。今思うと、あれが官能的ってことなんだろう。

性行為ってのは、精神を抜きにすれば、基本的には体の内側の粘膜がある部分の摩擦だ。だから、そういう意味ではディープキスってのはものすごくセックスに近い。だからというか、キスを初めてやった時の快楽がとんでもなかったので、だからたぶん僕はセックスよりもキスが好きだ。キスで尋常じゃないくらいに勃起する。キスをして求めあっていると思えている時が、たぶんあの頃の埋め合わせとして機能するから、そういう意味で最も幸福な時間と言えるかもしれない。


それが失恋ですべてが失われた。世界の底が抜けた。俺が言ってるXデイってのはこれだ。まだネット界隈には数人しかこのことを話していない。別にバレたって構わないのだけど、なんか慎重に行動するようにしていて、秘密にしておきつつ、それを言ってもいいなって思える時を待っている。


これを境にすべてがうまくいかなくなって、信じていたものを失ったから、憎悪に走った。

こんなひどい世界はぜんぶ消えちまえばいいって思った。正直、今でもそう思っている部分はある。構造を変えるもクソもねえんだよ、ぜんぶ消えちまえば、僕以上の苦しみを感じている人もいなくなるのだから、その方がいいに決まってる。どんな幸福があったって、それを上回る苦しみがあふれている世界には、どんな合理性もない。だから、ぶっ壊れちまえばいい。痛みなく、みんな死ねばいい。それが理想の世界だったし、今でも割とそれを追いかけているというところはあるんだと思う。認めたくないけど、基本的な欲望として、そこに向かわざるを得ない。

だから、反出生主義みたいな考え方は俺にはよくわかる。生まれなければ苦しみの構造が生まれない。だから、それが一番だって思う。

自分が幸せでありたいと思うし、自分が好きな人にも幸せであってほしいと思うし、通りすがりのどうでもいい人たちが幸せそうにしてるとなんかうれしくなる。特に子供が喜んでるのが好きだ。子供の素直な反応っていうのは、本当は何を感じているのかわかったもんじゃないけど、自分の理想の快楽を投影しやすいから、だから好きなんだ。言葉をしゃべらずにただ喜んでくれるイノセントな存在っていうのは、そういう快楽を投影しやすい。だから無害な動物ってのはいいんだと思う。猫も犬もそうだ。ついでにいえば、虫とか爬虫類とかもそうなんだと思う。


話を戻すと、そういうものというか、幻想、つまり彼女はもう戻らないから俺の幸せは戻らない。そして、世界はいつだって俺のことを攻撃してくる。そう思ってたから、こんな世界消えちまえばいいって思ってた。


でもみんなが苦しめばいいとは思わない。だから、合理的な選択として、今すぐに世界中に核を撃ちまくって、みんな死ねばいいって思った。それが一番いいことなんだって本気で思ってた。


だけど、僕はすぐに自分のことも疑う人間だったから、すぐにメタなことを考えてしまう。

問いとして言えば「本当にそれが最も簡単な解決方法なのか。それは誰かの自由を侵害していないか。誰の自由も侵害せず、自分の自由の行使をして完璧な世界を作る方法は何か」という感じだと思うが、その問いの答えとして「今この瞬間に自分が死ねばいい」という結論に至った。


「なんだ!俺が死ねばいいんじゃん!」って気づいた時、ひとりでめちゃくちゃに笑ってた。同時にものすごくむなしかったけど、誰のことも傷つけたくなかったし、最悪俺が死ねばいいんだなって結論に至れたのはすごいよかったことだと思う。自分だけ傷つけて終わるという方向性を獲得していなかったら、誰かを殺していたかもしれないし。

その時は、平等とか公平とかそういうことにこだわっていた覚えがある。そこら辺から「自分に都合が悪いことでも正しいことなら受け入れるべきだ」みたいな遵法精神みたいなものが芽生えた気がする。まぁ法とは言っても、マイルールであり哲学的・倫理的なことだから、あいまいだったけど。


僕は、埋め合わせとして、世界を破壊したいと思ってた。本当は彼女がもどってくればよかったんだけど、それが無理だったから、その世界の代替品として、この空っぽで痛みつづける自分を肯定するために、世界の破壊という革命的(?)なことに走ろうとしたのだと思う。


クソヴィーガンとかクソフェミとか反出生主義者ってのは、この時の俺と同じだと思う。本物のヴィーガン、本物のフェミニストは違うと思うよ。でも、クソみたいなやつらはみんなこうなんだと思う。全部埋め合わせ。本当に欲しいものが手に入らないから、過剰に何かで埋め合わせようとするんだ。


本当に欲しいものはもうないんだ。それはもう遅いんだよ。あいつが戻ってきても、もう俺は幸せになれない。そして、あのままあいつを手に入れていたとしても、俺が幸せな家庭を築けるほどのできた人間になれたわけがないから、結局は沈んでいたってわかってる。だから、本当に欲しいものは、特定の人ひとりじゃダメなんだってわかってる。そうやって社会が子供を産ませるためにつくったようなステレオタイプの幻想じゃダメなんだってわかってる。


最近はホリ○モンみたいな生き方がいいんじゃないかなと思ってる。あいつは死ぬのが怖くて、だから目の前のことにひたすら集中しまくるって生き方をしてるらしい。理由はすげえダサいけど、これしかないんじゃないかなって思うんだ。

というのは、目的なんか気にしないで、ひたすら目の前のことにフォーカスする力が、人生を楽しむ力だってこと。何かを失ったって、また目の前のことにひたすらフォーカスしていければ、その場に適応もできるだろうし、何より没頭できたらすごく良い時間が送れる。


んで、余裕ができたらボンヤリとみんなのことを考えて、みんなが幸せになれるような構造をどう作るかを考えるとかすればいい。


できたらみんなと今すぐにでも色々テキトーなことを楽しく話してみんなを幸せにできたらいいなって思うんだ。でもさ、そんなのは所詮幻想で、僕は不快を感じやすいから、無理なんだ。結局、他人とうまくやるってのができない。だから、僕は陽気なイイヤツにはなれないんだよ。

自分が用意した領域において、そうふるまうのはある程度できるのだけど、それをオフラインで不特定多数とかいつものメンバーで集まるとかってのは、本当に無理なんだ。うんざりしてしまう。飽きてしまうんだ。だから、自分が何をしたいのかってのが、いまだによくわからないところがある。


俺は何がしたいんだろうな。まぁでも、楽しくありたいってのは間違いないよ。ちゃんと10日以上空けて飲むコーヒーはマジでうまいし、割とずっと幸せでいられる。不快感がすごい少なくなるからね。いつもは不快感でいっぱいだから、それがなくなるのが本当に楽でいい。

他人といるってのは、ものすごく不快だよ。制約されるのが嫌なんだ。俺は俺がやりたい時にやりたいことをやれるのがいい。だかは、友達とか仲間とかそういうものがどんなにメリットがあるってわかってても、俺にはできないんだ。めんどくさいから。


俺の頭はすごく不器用だ。自分で何かをまとめたい時に、近くに他人がいてコミュニケーション可能な状態にあるのがすごく嫌だ。集中してる時に邪魔されるのは、いきなり後ろからナイフを刺されることに等しい。俺は静かなところでひとりで考えたいんだ。だから、俺が俺の世界にいたい時に俺の世界に入ってくるな。そういう気持ちがある。だから、他人と一緒にいるってことは、その自由を殺すことだ。だから、俺には他人が耐えられない。

俺がすごく賢いやつで、何かを考えられなくても平気なやつだったら耐えられたんだろうけど、俺は愚かだし、愚かだから少しでもちゃんと考えたいって思っちゃうし、だからひとりでいたいんだ。


でもね、他人ってのはすごく重要で、ざっくばらんに無方向に色んな話をすると、頭の中でアイデアが散らばって、議論的に話していくうちにそれが詰まってきて、知らないうちに何かしらの一つの考えになってたりする。それはすごいことで、僕の大好きな没頭のひとつの形でもある。

対談ってのは、その人そのものに向かう事であり、僕自身に向かうってことだ。鏡になり、より自分を、他人を、人間を理解するってことだ。それはそれでものすごく楽しい没頭だ。



でも、それだけじゃ物足りなくて、なぜならほとんどの場合、相手と僕が対等ではないからだ。

対談に応募してくる人ってのは、僕より下ということになりやすい。対等になれるやつはほとんどいない。僕が話をひたすら聞いて、相手の認知を破壊したり、何かしらのアドバイスをするので、自然に上ってことになってしまう。そして、これまで書いてきたことからわかるように、僕はウダウダと色々考えてしまう人間であったから、ウダウダ考えたぶん相手よりもそれについて理解が深い場合が多い。というか相手はあまり正常な状態でなかったりするので、判断力が失われているだけなのかもしれないけど。まぁそんなこんなで対等な関係になることはない。


対等ってのはすごく重要で、なぜなら議論ができるからだ。それは違うと思うって言えるだけで話の質はまったく変わってくるし、同じ意見でもまた別の解釈とかを言ってくれる人ってのはすごくありがたいなと思う。相手の知性を借りられるというタイプの没頭というか、それが好きなんだと思う。

だから、ひとりの時間は好きだけど、今言ったようなこともやりたい。閉じた空間でひたすらテーマに没頭していく、話に没頭していく。なんて美しい時間なんだろう。今の僕は「これが生きてるってことだよな」なんて思っている。それがやりたい。でも、やっぱり他人はキモいので踏み出せないところがある。


キモいのもあるし、単純に自分よりも頭が悪いと、話してて楽しくないのでキツい。複数で話している時に役割が明確でない時も結構イライラする。何も結果が得られないのも嫌だ。だから僕は孤独を選ばされている、という感じがする。

だから、他人に向かいたいのだけど、あまり他人に向かえていない。特にアスペだと僕の領域へ平気で踏み込んでくるから、そういう不快も感じたくないし。ということで、僕は他人と関わるのがそういう理由で怖いんだ。


そう、「没頭の中に完璧な世界を求めている」ってのが正しい表現であり、僕の求めている世界なのかもしれない。そうか、これが僕の本当に欲しいものなのか。ちょっと言葉になったかもしれない。没頭が僕の求めているもので、それがなんの埋め合わせでない完璧な世界なんだ。それがホリ○モンの生き方だと思っていて、それを僕は良しとしているんだ。まぁ、実際に彼のようなことをやろうと思ってもできないし、やれることは限られているけど。


だいぶスッキリしたから今日はこの辺で終わろうかな。


そうそう、最近は坂口安吾の著作を読んでいる。欲望についてだかなんだかから始まり、恋愛論に行き、その欲望うんたらの中で紹介されていたマノン・レスコーという娼婦の恋愛小説も読んでいる。

安吾は「恋愛とは人生の花であります」とかなんとか言っていた気がする。どんなに退屈でも、恋愛がなけりゃあ人生なんてもんは成り立たねえんだと。

その恋愛ってやつは、幻想だ。俺がやりたい没頭ってやつも、その幻想の中での過集中の遊びに似ている。

そう、恋愛じゃなくたっていいんだよ、人生の花ってやつは。没頭もひとつの花だ。

だから俺は没頭に生きようと思う。そういう生き方を目指していくのが俺にとって正しいんだと思う。

もしこれを読んで俺に少しでも同情してくれたなら、仲良くしてくれると嬉しいな。あと、なんか変なことをしても多めに見て欲しいな。そういうやつなんだよ俺は。変わろうと思っても変われない部分が多すぎるんだ。



追記

自分との対話についてなんだけど、こういう感じで愚かの言葉や、自分の愚かなことについて説明する言葉を使ってやるのが重要なんだと思う。もっと汚い言葉を使っていいし、自分のダサいところをちゃんと言葉にした方がいい。

無意識にキレイな言葉を脳内で使おうとしてしまうところがある。それは、自分の愚かさに向き合わないためだ。

でも、いつだって自分の愚かさは、放置していれば、小綺麗な自分のことを追ってくる。スキマから出てこようとする。だから、もっと愚かなことをちゃんと考えたり書いたりしないとダメだなって思ったんだ。

汚くていいし愚かでいいから、ちゃんとそれを言葉にして考えるんだ。そうしないと、次のステージに進めない。

その愚かな初期プログラムを、よりよいプログラムに更新していくためには、まず愚かであることを認めなくちゃダメなんだ。だからもっと愚かなことを書こうと思って、この記事を書いた。

自分の醜さや愚かさをさらけ出してこそ、僕は自分の人生を生きられると思う。秘密があってキレイな大人になんてなれないんだ。

だかは、もっと愚かになろうと思った。

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