代用品

残念ながら、激しく愛したものや、長い時間をかけて積み上げてきた関係性、長い時間をかけて積み上げてきた趣味、それらの代用品は存在しない。

これからつくればいい?まぁ確かにそれはそうなんだろう。でも、それはなかなかにむずかしい。たぶん、歳を取ればとるほどにむずかしくなっていく。




「人は皆入れ替え可能な存在である」この言葉を信じて生きてきた。これもまた事実であると思う。

ただし、激しく愛したり、長い年月をかけて前提を積み上げて関係性を構築してきたいう前提があるならば、それはやはり特別なものである。

同じような関係性もあるにはあるけれど、やはりその人でなくては得られない何かがある。

それは素材の育て方や環境による味の違いや、味付けの違いに過ぎないと言えばそれまでだけれど、それ以上に自分がその味を幾度も噛み締めて味わってきたという記憶とその中でレシピを素材とのコミュニケーションをしながら変えてきたという歴史があると思う。

それはやっぱりかけがえのないものであり、無限であれば入れ替え可能な存在と言えるものも、有限な我々にとっては入れ替え不可能な存在と言っていいのかもしれないと思うようになった。




特別な他人との関係性をもういちど。そのために関係性の浅い人に幻想を抱き、または相手をまったく見ずにその想いを一方的にふくらませて、代用品として使う。

なぜそこに到達できたのかを忘れてしまったのかな。それとも、もうそれができない状況にあるのかな。それとも、もうそれができないと思い込んでいるのかな。

わからないけれど、どれだけ誰かへの想いを別の人に一方的にふくらませても、しぼんだあとに残るのはむなしさだけだ。だれも幸せにならない。




必要だったのは、ちゃんと向き合うことだったんだな。自分と、そして目の前のひとりのひとと。そうやって入れ替え不可能な存在になっていく。そうやって入れ替え不可能な関係性を育てていく。

それをすっ飛ばしてショートカットしようとするから、いつまでも孤独なんだよな。




どうにかこうにかつくりあげていくしかない。そういう気持ちがある人間と丁寧に向き合って特別な関係をつくっていくしかない。

みんな、いま救われるために必死なんだよな。でも、そこにショートカットはないんだ。

できることがおおいうちに、体力が残っているうちに、やれることをやっておこう。代用品ではダメなんだ。

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