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わりと日刊だらく[No.151]〜武道的な稽古をやる〜

今日の散文



武道的な稽古をやる


たしか去年の7月あたりに「解呪」という概念を知り、去年の8月末に「大人を手に入れた」という感覚になってから、自分なりに解呪をやり続けていき、祈りの理論を組み立ててきた。

そんなことをやり続けていたので、当たり前のように武道的な考えに行き着いた。


合気道をやっている人がインターネット上で目に入る機会が多くなっていたのが大きい。単純接触効果で思い出す機会が増える。

そうやって合気道の存在を認知し始めて、マンガ刃牙に出てくる渋川剛気がすごく好きだったのもありおおよほのイメージがついていたので、合気道について少しずつ興味を持っていき、無意識になんとなく知っていくうちに「自分の力をほとんど使わずに相手を倒す」みたいな発想に惹かれた覚えがある。


「敵を倒す」前にそもそも「敵を作らない」。

「敵を倒す」ならまずは「自分の中にいる敵を倒す」ところから。

強さにも色々あり、敵を破壊することだけでなく、敵と仲良くなるとか、どうしようもない敵にはそもそも近づかないようにし、ヤバい気配があれば離れるとか、「生存すること」に重きを置いているところが好きだ。


最近では、合気道もそうだが、システマと躰道に興味を持っている。

基本的な精神性は合気道やシステマが優しくて好きだなと思っていて、中野先生の動きがものすごく好きなので基本的な動きの型は躰道に憧れている。

前者について言えば、精神性もそうだが「脱力」「生存」「非破壊」に重きを置いているところが好きだ。生きやすさを追求していける気がする。

後者について言えば、中野先生の動きのキレがめちゃくちゃ良いというのが躰道を好きな理由の9割を占めているので「本当に躰道がいいのか?」という疑問が出てきてしまうところではあるが、彼の動きのキレが良すぎるのもあるのだけど、型から型への移行がスムーズで完成されていて洗練されている感じがするので好きだ。


どんな武道であれ、その技術の前に、その武道の精神性みたいなものが原則になっているはずなので、それにすごく興味がある。


また、どんなことにも対応できるような基本的な型に興味がある。

相手をよく観察してその行動からは不可能になる選択肢を理解しておき次の行動の予測をつけてくこと、カウンター的な選択肢を広げて持っておくこと、自分から動かずに相手を動かして有利な状況を作ること、そもそも戦わないで済むようにすること、など。


これまでは、生き方的な意味での武道、特に自分の中にいる敵と仲良くなることに重きを置いてきた。

今はもうわりと仲良くなることができた。

たまにコントロールを失う時もあるけど、まぁそれはそれで僕の中のひとつの人格についての理解が深まる。とても良い気づきになる。

その中で「良い呼吸」「良い姿勢」「脱力」が重要であることに、徐々に気づいていき、そこにシステマの「動き続ける」と合気道の「合気する(僕が勝手にそう言ってるだけ)」が加わり、「合気しつづける」が生まれた。


生き方的なもの、認知的なものだったのが、徐々に身体性を帯びてきた。

ということで、本格的に、独学・我流ではあるが武道的な稽古を始めることにした。


まずは、正拳突きからはじめた。北川先生の脱力してストライクするのを見て、よくわからないながらにそれを取り入れた。

次に、以前からやっていたエセ太極拳を復活させた。これは身体感覚を意識したり、バランス感覚を良くするのに役立つ気がする。

そして今日は、中野先生の動きをパクって、躰道の基本的な動きの型を、側転を混ぜつつ、左右の重心を入れ替えてスイッチングしていくというのをやった。


本格的に武道を習うのには、お金も時間も足りないので相当先になる気がする。

本当は、良い先生に習ってやりたい。

その方が最初から良い型を教えてもらえるから進歩も早いだろうし。

だが、とりあえず少しでも良いから時間を絞り出して、我流でもいいから、武道的なことを身体性をもってやっていくことにはとても大きな意味があるように思う。

きっと、さらにストレスへの対処がうまくなるだろうし、色んな人と仲良くできるようになり、コミュニケーションの摩擦が減っていくことと思う。

身体性をもって型を無限にやり続けるようになるということは、認知的な型も乱れずにやっていける可能性が高まるということだと思う。

呼吸、姿勢、脱力、合気しつづける、これらにたどり着いたのは「認知より前に身体性が重要である」ということを示しているように思う。

そんな理由で、僕は武道的な稽古をやっていくことにした。

祈りと同じくして、理論は自分で組み立てていく。

これが楽しいんだよな〜。


今日の音楽

超越の祈り

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