公園アンソロジー・京島南公園
一日一カフェより一公園が好きだ。薄々は気づいていたようにも思えるのではあるが、今日はどちらかしか行けないぞ、という状況になった時、公園を選択するという答えに至ることに気づき、公園が好きと口外するに値する好きの度合いであると思った。
公園へ行くというのは一つのいい目的で、散歩+目的によって私自身は運動と頭のデドックスを、ハーちんには道路の歩き方とそうでない場所の区別や人や犬がいる環境に行くといった社会科見学を兼ねることができる。なので、目的地は大抵公園か犬連れ可の場所になる。
脳への刺激に変化を付けさせるためにも散歩コースの開拓は大事な調べ学習なのである。だが最近、散歩コース作りのための施設探しへの疑問が沸いてきたのも、今自分に必要な向き合いの時間のための環境は公園で十分ではないかと後押しする要因ともなっている。
ご存知の通り、昨今の検索システムのほとんどに学習能力や人間以上のシナプスの繋がりのような関連付け機能によって、1度の検索によって導きだされる情報があれよあれよと表示されるようになっている。そして、関連情報ということで、本筋を少し外れた脇道の情報までも表示される。
例えば、“犬OKのカフェ”と調べていたはずが、“都内のテラス付きカフェ”→“おしゃれなカフェ”→“絶対外さないカフェ”みたいなことになっていき、犬OKかどうかはいつの間にか第三条件くらいに引き下げられていることもある。
後日また同じように調べようとすると、前回の学習データに依ってなのか始めから“都内でおすすめ、行かなきゃ損なカフェ”のよく映し出された写真と丁寧な解説付きのものが表示され、“おすすめ”“行くべき”“本当は秘密にしたい”…などといった文言が並び、そういうものから受ける選択の不自由さと、その場所へ行くためにレールが敷かれているような不信感に当てられて調べる気力が削がれてしまうことが多くなった。
そうなると、目的地のメインは公園となる。公園に行けば、パルクールもどきをしてみたり、遊具を失敬してみたり、ハーちんとのトレーニングをしてみたり…となかなかの使いっぷりをしていたし、以前、受け持つラジオ番組のコーナーで日本の公園について話をしたこともあり、これは私は公園が好きなのではなかろうか、と思い始め、どうせ検索の調べに依って何処かへ流されて行くのなら、未だ見ぬ公園と出会える方がいいかもしれないと思ってきたのだ。
前置きが長くなったが、そうして今回出会った公園が京島南公園である。
通称・マンモス公園。この公園のシンボルはこの2倍サイズの滑り台である。時間帯なのか、子供たちが居なかったので失敬して階段を昇る。長い。空へ向かっている気持ちが高まる。大人のサイズでそうなのだから子供たちからすれば尚更だろう。見下ろすと、おじたんもハーちんも小さい。再度確認して、腰を下ろし滑り降りる。
速い。途中に1度踊り場のようなところがあるが、スピードは全然落ちない。そのままの勢いで地上まで降りてゆき、最後はお尻を打ち付けながら跳ね上がるように着地した。
滑り台の裏手にはジャングルジムが2つとその2つを繋げるように高さのある雲梯が高低差をつけながら掛けられていた。
こちらも往復試してみる。高低差のある棒をコントロールして掴むのは体幹の強度もいる。
高さと強度のある遊具、紛れもなく昭和に作られたであろう公園である。そういえば、小学校の校庭にこのくらいの高さの雲梯はあったような気がする。いつもはくすぐられない記憶の蓋が開く。
振り返って見上げた滑り台の先にスカイツリー。青を濃く塗った空と2つの造形物は少し古い漫画の近未来都市のようであった。
公園も、道中の下町商店街もたっぷり楽しみながら駅の方へと向かった帰り道。駅周辺は新興住宅地のようで新しいマンションや商業施設もあった。そのマンションの周りには最近のカラフルでポップな装飾の可愛らしい遊具のある公園があり、小学校低学年くらいまでの子供たちが遊んでいた。
これからあの滑り台に挑むであろう子供たち。
彼らにとって、高さを克服した達成感やスピードに乗り切れた高揚感は、共に映った景色ごと記憶に残るだろう。あの滑り台はきっと、もう作られることはない。この先失われてしまったら、再び出会えないものは意外にも近くにもあった。老朽化して取り壊されない限り残っていてほしい、と願う。