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表層の言葉のさざ波

 その発した言葉の出処がどこからであるのか。
人と対話するときにこの頃持ち合わせている観点である。
発された言葉は、言葉の本来の使い方なのか、それともその人オリジナルの使い方なのか、という言葉の意味の吟味に加え、その言葉そのものが何故その人から湧いてきているのか、そこからその人が拠り所としている価値観やバックボーンまでを汲み取ってみようという試みである。
面倒なように思えるのだが、この観点を通すことで、フィルターで漉したかのように大事な言葉だけが抽出されるのだ。その抽出されたものはほとんどその人のパーソナリティやアイデンティティに近いくらい濃いものであったりもする。
もちろん、それだけで総てが分かり切るわけでもないのだが、その人が本当に伝えたい部分や解ってほしい感覚、そういったものがより明確になったりはする。自分が聞く側のときには、より相手に寄り添ったり、これは一時的な感情からのものだななどと判別しやすくなったりする。
以前、身体を信じる話を書いたが、身体とは体躯四肢だけでなく、脳(心ではなく)・内臓といったものも含んでいる。自分が持つ感情や感性は心=脳の判断ではあるが、脳は心以外にも身体の様々なところと繋がっており、脳自体も身体の一部として本体の反応がある。つまり、例えば、心の判断ではこの人と仲良くやらなくてはと思っても、脳の方ではこの人はちょっと怪しいぞ、気をつけろと反応しているみたいな状況が起こる。
そういう時は、経験値や今後の見通しなどを推し量って心の判断に従うことが多いのだが、身体を信じることにしてからは、この脳自体の反応をまずは尊重してあげることにした。
脳の反応を信じ、その言葉の根源を考える。
そうすることで、言葉を持つ人と交錯するときに自分が揺さぶられ過ぎたり、不安や嫌悪を抱くこともかなり軽減されるのだ。ほとんどがさざ波のよう。
さざ波はきらきらと美しく、さらさらと一瞬で移り変わってしまう。さざ波のような言葉。
拙いながらも、自分なりに言葉の不思議を解き明かす。世の中の言葉にはそういう言葉の部分もあると思ったら、また世界が変わってきた。
 頭の体操もしつつ、今週は身体のトレーニングも。秩父・武甲山登山。武甲山は登る山というよりはその山容や周辺地域の様子を見るほうが魅力的なのだが、寒さに耐えること、緩めの傾斜をハイペース気味に登り続けることを主にと挑む。
武甲山は今もセメントの原料となる砂を採掘する場所で、その周辺には名だたるセメントメーカーの工場がある。雪のように薄鼠色に染まった道路や木々はSFのどこかの世界のようである。
山林に入ってしまうと大きく育った杉林が続くので眺望はない。時折、沢や湧き水が氷瀑となり氷柱となり、水飛沫でさえも氷の塊となっている場所を通る。ひねもす寒いことが窺えるが、それでも近年はマイナス10度を下回らないことが多くなった。秩父の名産である天然氷はこのマイナス10度の安定した寒さによって、舌に痛さを感じさせない美しい氷ができるので、天然氷が生産できなくなってしまうのもそう遠くない話だと感じる。
大きな乱れもなく、山頂へ。切り出された崖側となる山頂は盆地(丘陵)となった横瀬町から吹き上げる寒風に曝され、記念撮影もワンテイクで終わり。群馬方面は雪もやい、遠くは冬の靄。景色は晴れのおかげで最高であった。
下山道には雪が残る部分が多く、寒さが苦手な割りには雪好きのハーちんのテンションがアップ。
“まだまだ行けるよー”という顔をしていたのだが、暖まった車に入ってしまえば、とろけるように伸び切ってい“もういいやー”と言わんばかりに。犬の感受性や表現の、人間の子どものようなところが面白い。
寒さに馴れるにはまだまだ修行が足りないところ。楽しく行き帰りできたのでよしよし。
山の中には春がもう息を潜めていた。今年も見逃さないように、しっかり準備。


武甲山山頂より
雪るんるん


 

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