言えない、癒えない傷

最近、秋もすっかり深まりました。澄み切った秋の空には、なぜか哀愁を感じますよね。
いよいよ日本シリーズも始まりましたね。

さてこの国では、いつの世もマスコミでは有名人の不倫話を面白おかしく騒ぎ立てますが、たかが不倫?されど不倫?さぁどちらに思いますか? 今日はそんな不倫で自ら命を絶った、とある人物の最期の話です。
実は私には二人の姉がいます。でも一緒に暮らしてきたわけではありません。初対面は私が29歳の時で、ま、俗に云う異母姉というか、ぶっちゃけ父の隠し子というぶっ飛びな存在のお二人だからです。
幼い頃から父はあまり家に居た記憶がありません。 例えるなら、昔のNHK朝ドラ「あぐり」のヒロインの夫、野村萬斎さん演じたエイスケみたいな人。ま、ピンとこない方が殆どでしょうが、たま~に帰ってきて、わが子 (幼い頃の吉行和子さん)に「お~和子~、久しぶりだな~、大きくなったな~。よし、 僕はこれから出掛ける」。あぐり「また出られるんですか~」みたいな、いち中学校教諭ではありましたが、傍ら地学の研究や調査で、休みの殆どは山や海岸などをフィールドワーク(野外研究)と、また学会の交流なども盛んで、ふだんあまり家に居なかったので、母もさほど疑念はなかったのでしょう。
父との想い出は、幼稚園に上がる前のある日の夕方、昼寝から目が覚めると、たまたま居たんです。母が居なかった(母は当時、着付けの仕事をしていて、昼からの時はいつも私を連れていく)ので、「ママは?攻撃」を父に仕掛けたら「さぁ~、どこいったんでしょうね~」「いつ、戻ってくるのかな~」とまるで親子とは思えない会話(母との疎通のなさにも呆れる)。私はなんか置いていかれたことに急に腹が立って、思いっきり泣いてやりましたよ(笑)。すると今度は「おぅおぅどうしたの?悪い夢でもみたの?何食べたいの?」とか、またし ても全く的外れなことを他人行儀にいうので、さらに暴れるように泣いてやりましたが、私の事より、(うるさいので)ただ泣き止むことに徹してるのが幼いながらも感じ、そんな子育てには全く無能で、家族を殆ど顧みないようなひとでした。 その後、手に負えなくなったのか、私をおんぶって徒歩1時間ほどの姉(私の叔母)の家に駆け込むのですが、途中の夜空に3つの明るい星が見えて「あれが土星、下が火星、 その横が金星だよ...」とその時だけは、先生らしく優しく教えてくれたことだけは憶えていて、今でも「惑星直列」という言葉を聞くと父を想い出します。

それから20年以上の月日を、一見フツーな家族で過ごしてきたつもりでした。そんな父は在職中から、がんを患い、入退院を繰り返していました。一時はステージ4で「余命半年」とまで宣告されましたが、(悪運も強く)何とか生き延びてはいました。 そして結果的に最後の再発~入院の時に、こんなことを母と私に突然言い出したので す。
「僕はホントなら教壇になんて、立てなかった人間なんだ」「実は君との結婚前から 不倫の仲の相手がいた。その子供までいる。娘2人はお前と上は3つ、下が1つ歳上。今は◎◎町(市内)に住んでいる...」などいきなりカミングアウトし始めたのです。
いやいやもう民放ラジオでやってるテレホン人生相談の世界ですよ、マジで(それより 今までずっとその完璧なまでの隠しぶりに感心というか、長年その気配すら一切気づけなかった私や母の鈍さが情けなくもなった)。
まとめますと、不倫関係(罪1)の相手と子供が2人もいながら(罪2)、それを隠し(罪3)、 母に手を出し結婚(罪4)したという。しかも望みもせず、生きるに値しない欠陥商品(アホ息子)まで、この世に発生させてしまった(罪5)。

もういっそ、タイホでよくね?(笑)
万一、皆さんなら、そんな実の父をどう思われたり、なってしまいそうですか? 当時の成少納言は激怒した(メロスかよ)。「テメェの顔など、二度と見たかねぇ」「おかんに土下座しろ、(母方の)じっちゃんとばっちゃんにもな」などこんなの序の口で、 私をマジで怒らせたら、この限りではございません。「◎ね!」以外のあらゆる暴言の数々を容赦なく浴びせてしまった気がします。しかしこれが私の一生の不覚でした。まっさか今でも胸が潰されるほどの苦しみに苛まれるとはね...。

その怒りの最大の理由は、父方の兄弟とその配偶者が殆ど小中高の教師で、その子達 (いとこ)は学問的にはわりかし優秀な方で(例えば37歳(女)は現在、あのiPS細胞は山中伸弥氏が率いる研究チームに在籍していたりとか、 同い年(男)は歯科を、もう独立開業してたりで、私は父の家系では突然変異の不良品扱いをされ続け、その度に「T子(母の名)さんの教育が悪いから」だとか何かにつけ母方 の家系をすごく下げずんでみる輩だったから、私は父方の家系には昔から敵対心と抵抗心しかなく、そもそも母は父を全く好きでもなかった(補導歴もあるような不良少女 がまさか先生と結婚とは周りの方が驚いたらしい)のに、父の方から(しつこく)迫られ、渋々一緒になったと母からは聞かされ、さらに姑や小姑に散々嫌がらせを受けてきたのを実際私も見てきたので、こんな男に人生狂わされた母が急に哀れに感じてし まったからです。
父は「僕を一生許すな」とは言っていたが、開き直りにさえ感じ、時には「さっさと逝けばいいのに」と死を願ってしまったのも事実です。 しかし一方では、どうしたらまた以前のような関係に戻れるか、父として見ることができるか、何かその挽回策を父に果たさせたいと真剣に探ってはいました。 いくら先の短い、弱り切った末期の人とはいえ、無罪放免でのうのうと余生を過ごされるのも、あまりにムシが良すぎる気もしたし、もう少し懲らしめたいとさえ思った。たとえ芝居でも慰めたり、励ましたりなんかは到底無理でした。父は私に何を言われても、最期まで弁解は何ひとつせず「お前には申し訳なかった」「俺はサイテーなクズ男なんだ」そればかりを繰り返していま した。
その自白から2ヶ月が過ぎた頃、一度、真夜中に未遂じみたマネをした(ズボンのベル トを首に巻き、何度も強く擦ったのか、皮膚がすりむけ、首は血だらけ)時は、さすがに焦り、色々じっくり話を聞いてみたら、会話やその内容も極めてまともで、精神は病んでるようには見えなかったので、それも同情の為のパフォーマンスにも感じ、 益々腹立たしくもなりました。
その一週間後もあることで、また父を怒鳴りつけてしまい、その夜に言い過ぎたことを一応謝りましたが、その時に「もう、そういう問題じゃないんだ」とだけ言ったのです。私には(今でも)意味不明な言葉でしたが「じゃあ、どんな問題なのさ?」と聞き返しもしませんでした(これは今でも悔やみきれません。後に自責に苛まれない為にも、ここだけはきちんと聞いてあげるべきでした)。
その次の日は日曜日で、私は朝から夜遅くまで遊び歩いていて、父とは一度も会うことはなく、またその翌日の月曜も私は朝が早いので、顔を合わすこともなく出勤(大抵、父の寝床に「行ってきます」と顔を出してましたが、たまたまその日は時間がなかった訳でもないのに省いてしまいました)。
この日は、その時期にしてはとても穏やかで、まさに小春日和の暖かい日差しが職場の窓(試験室という私しかいない部屋)に射し込み、ウトウトしていたお昼休み。突然電話が鳴りました。ナンバーディスプレイの番号は自宅からでした。 「せーっ、せーっ(私の名)」と母の血迷ったその悲鳴は今でも脳裏に焼き付いています。
「おとん、首吊ったぁ...。もう死んでんの...早く来てよ、早くっ...」
社長にだけ事情を話し、急行。
自宅前には救急車とパトカー。 吹き抜け階段3階から決行した父は、すでに降ろされていました。 まだ生温たかったので、私はすかさず「よく病院のドラマとかで見かける、胸にあてる鉄板みたいなヤツ(当時AEDという言葉も知らなかった)、早くやってくださいよ、ねっ、ねっ」 と救急隊員にすがったけど「残念ですがもう硬直が始まってますので...。あとは警察 の方で...」と早々撤収してしまいました。
顔を見たら、とても苦しそうな表情でした。虚しかったのは階段真下に何層にも敷かれた新聞紙の数々。首を吊った遺体は汚物を垂れるという話を周知していたからで、 せめてもの配慮のつもりでしょうが、そんな頭がまわるのなら、遺されたうちらのことまで考えてほしかった。まさに死を決意した行動でもあり、一体どんな気持ちで敷いていたのだろう。実際はわずかな漏れすらありませんでした。
父を布団に寝かせましょうということで、葬儀屋の方と移動した時、久々に父に触れた気がしました。思えば20年以上ぶりでした。その時ふと冒頭で話した幼い頃の父の背中の感触が想い出されたのです。

検視に来た年老いた警察医による死亡推定時刻はいい加減なものでした。否定はしませんでしたが、母の外出前の時間帯でした。さらに一週間前の未遂で擦りむけた首の痕にも全く気づかず、科捜研の沢口靖子さんなら「これは今日のものではありませんね」とすかさず突っ込まれたことでしょう。刑事さんの事情聴取で「心当たりは?」に「全くありません」と答えてしまっただけに、気づかれても厄介なことになったはず。動機は単に「病苦によるもの」で調書は片付けられていました。
すっかり冷たくなった父の死を正式に受け止め、まず真っ先に私を襲ったのは殺人意識でした。散々ひどい言葉をぶつけてしまい、もう長くもない実の父に対し、優しく接してあげようともしなかった。そんな父への嫌悪感の時期に、自ら死を選ばせてしまったのだから。 「もしあの時◎◎していたら...(生きてた)」 「あの時◎◎してしまったから...(逝ってしまった)」
自死遺族はこのような「私のせい?」という永遠に出ない答えと自責の念が生涯つきまとい、苛まされてしまうのです。
父との最後の会話は2日前「今日は(日本シリーズ)どっちが勝つと思う?」でした。でも返した記憶がなく、つまり無視をしてしまったようだ。すっかり冷め切った間柄になりつつも、折角珍しく優しい声を掛けてくれたのにも拘らず…。ホントあまりに冷たい、酷い対応をしてしまった自分が許せなくもなります。でもその時は 異変や予兆には全然気づけませんでした。この言葉も平静を装う最期の演技だったのかと、今になって気づき尚更切なくなりました。吊った紐は「どっから出したの」って感じの全く見憶えのないものだ ったので、案外計画的でもあったようです。
3階の木製の手摺りには、今でもくっきりその紐の食い込み跡が残っています。 「苦しかったよね。一体どうしてほしかったの?」たまに目を閉じ、声をかけながら触れてみる。以前、母も撫でていたのを見かけました。

あの日、警察や葬儀屋と応対中、ふと窓の外に目をやると、昨日の大雨が嘘のような大快晴の秋の空には、やはり何かもの哀しさを感じました。 母が私にそっと「この空に呼ばれたんだね」と呟いた。母の外出前、父は3階の窓からぼんやりその青い空を眺めていたそうで、多分ひとりになる機会を狙ってたようです(太陽のフレア(表面爆発)は地球の地磁気を乱し、様々な電子機器から人体では心疾患から精神にまで影響を与えるそうで、実は父が逝く数日前の2003年10月下旬に記録的なフレアが発生し、北海道や群馬県ではオーロラが観測されたり、その磁気嵐で地球観測衛星みどり2が打ち上げ一年も経たずにおシャカになったほどで、わずかでもそれが何か父を覚醒させた要因だと、今でも私は信じています)。
その夜、明日からに備え少し休もうとTVをつけたら王監督の満面の笑顔が映っていた。どうやら日本シリーズはダイエーが阪神を下して優勝したようだ。母は更にうなだれてしまった。当時のパート先がスーパーのダイエーさんで、明日からは勝ったら優勝おめでとうセール、負けても応援ありがとうセールがひかえていたからだ。職場の上司には「暫く休みます」との電話を改めてかけて、ひたすらスミマセンを繰り返してました。

父の兄弟のうち、姉二人には父は絶対服従で、父がAと決めても、姉がBと言ったら父はBを選ばざるを得なく、その姿に長年私も母も歯がゆさを感じてきました。毎回姉ら にはわが家は大いに振り回され、私が反権力主義になったのも、おそらくそのせいで、私の学習塾から高校、わが家の住宅メーカー、父の入院先まで全て介入や干渉、 そして決定権までを握る。父も内心は不満でも、うちらに愚痴るだけでした。さらに 先生風吹かせて、母を教育的指導する小姑らに、私と母は呼びつけられた。吊るし上げの予想は的中しました。 「一緒に住んでて、二人とも何やってたの?」、「きっとあのことで、散々◎◎(父の 名)を責めたんでしょ」、 「ストレスががんに一番悪いのよ。先が長くない病人なの、わかってたじゃない」、 「もっとね、優しさとか思いやりとかないの?」などもう殆ど容疑者扱いの集中砲火を浴びた。 「黙れ、部外者!うちの家族の何がわかる」と返したいとこだったが、勢いに押され言えなかった。
母が一度だけ、こう切り出した。 「もしあなた方も私と同じ立場だったら、旦那さんに今まで通りでいられますか?」 姉二人は答えず、微笑でごまかした。さらに姉の旦那が「女のひとりやふたり、フツーだろ」と父を擁護したのには呆れた。ましてや仮にも元中学校校長である。これが教育者の発言や認識だろうか。 もうここの家系はやはり父を含め、まともではないと感じ、何を話しても無駄にさ 感じ、私は「父が母と結婚する時、その事実を二人は知っていたのか」だけを問いました が、これもまたとぼけたようにはぐらかした。

そこは父の実家で、祖父母の亡き後は独身の高校教諭の父とだいぶ歳の離れた妹のY叔母がひとりで住んでいました。 姉二人や父とそのY叔母は、昔から異常なほど折り合いが悪く、私の前でも姉二人には頭ごなしに怒られたり、温厚な父でさえ「Y子、お前は黙ってろ」というくらいなので、私もつい便乗し、反抗期には会う度に「勉強しなさいよ」と言われるので「うるせえんだよ、ババア(私とは14歳上のまだ20代後半でしたが)」、「何なんだよ、オメェは」みたいにとことん刃向かい、私は大人になっても特に理由もないまま心底嫌っていました(幼い頃は祖父母の家に泊まった時にいつも一緒に寝てくれたにも拘らず…)。
今までの話の始終を、ずっと奥で黙って聞いていた、そのY叔母がみんなの前に現れ、 こう言ったんです。 「T子(母の名)さん、成ちゃん。これはね、パパが自分で選んだ道なの。だからこれ以上、自分を責めないでね」 と言われた時には、年甲斐もなく人前で号泣してしまいました。そして姉二人に「あんたたちの方が優しさも思いやりもないじゃないの。今、一番辛い想いしてるの誰な のもわからないの?」と怒鳴ってくれたのです。その後もさすが高校教諭の迫力で姉二人に盾突き、うちらを庇ってくれました。もう横では母も泣き出す寸前でした。姉二人はすっかり黙り込んでしまいました。 まさかのY叔母の援護には、ホントに地獄から救われた想いでした。察するに独身を貫いたY叔母には兄(父)の不純さ、不貞さが許せなかったようで、私らに同情したようです。 後で聞いた話によると、姉二人も父の不貞行為の重大さは重々承知で、うちらから慰謝料などを請求されるのを一番に恐れて、まずうちらをとことん悪者のように責め立て、少しでも父を正当化したかったらしい。マジでサイテーなやつらだ。慰謝料とかそんな気、私も母も思いもつかなかったんですけどね。異母姉妹への養育費は全てこの姉二人で陰で払い続けていたらしい。どーりで父が一生、頭が上がらないはずだ。
そんなY叔母も、もう今はいません。父の後を追うように持病の難病が悪化。入院中は 母も私もあの時の恩返しの為にもよくお世話に通いましたが、姉二人は一度も来なか ったそうで、葬儀もひっそりあげましたが、その参列すら実の姉妹なのにも拘わらず、 二人とも現れなかった。やはりここの家系、もう腐りきってると確信しました。その後向こうから絶縁されましたが、こちらこそ逆にさっぱりしました。

さて、ここで不思議な話。
父が逝く2日前にも私が怒鳴ってしまったと先程書きましたが、その理由は、まず時系列として逝った日が月曜日の午前中、怒鳴ったのは土曜日の午後でした。 父は母方の祖母には、とても好かれていました(いつも「真面目で優しいパパ」と褒めてたので、過去の事実はとてもじゃないけど教えられないまま10年ほど前に他界)。その祖母が丁度その時、入院していたのですが、私の叔母(母の妹)が札幌から、土曜日の朝一番の特急で見舞いにくることになっていました。実は父はその叔母が好きだった(ホントは母よりも結婚したかった)と私にだけ、だいぶ前に話したことがありました(こんなこと息子に言う自体、狂ってますが...)。 その際、うちにも立ち寄ることになっていたのですが、私は父のホンネを知ってるだけに、今のみじめで愚かな父をなるべく叔母には会わせたくなかったのです。しかし (何も知らない)母は「わざわざ来るんだし、妹も会いたがってるし、(父に)顔くらいは 出してね」と言ったのですが、私は「今日は仮病で部屋からは出てこないでくれ」と 父を気遣ったつもりで頼んだのです。一応父のプライドにも懸け、叔母にも過去の事実を知られた後のブザマな姿を母、叔母、私の中では唯一父方の血の繋がる私の恥でもあるので、何とか対面だけは最後まで阻止させたかったのです。 朝、早々叔母がわが家に到着、居間で母と話していたら、すっかり落ちぶれた、だらしのないパジャマ姿のままの父が寝床から現れて、顔もロクに上げないまま、叔母に一礼して、また寝床に戻っていったのです。以前までは叔母も父には敬意の目で見ていた のですが、過去の事実を知った叔母は、一瞬軽蔑と鼻で笑ったような目線で父を見たのを私は見逃しませんでした。
その後、私は母、叔母と3人で祖母の病院へ見舞いに行ったのですが、そこで祖母がおかしなことを言い出すのです。 「夜中に男の人が来て、腕を握っていった」「その手がしゃっこくて(冷たくて)、しゃ っこくて...」
ホントにしつこいほど言うのです。 叔母も「母さん、もうダメだね。すっかりボケたわ」と。 相部屋の3人の患者さんもうちらに「誰も来てませんからね」とそっと教えてくれました。 事実確認として看護師によると、深夜に院内には許可なく入れなく、ましてや婦人部屋なので、見知らぬ男性など、当直の看護師がナースステーションで特に要注意してるらしく、つまり深夜の見知らぬ男性見舞い客などはあり得ないとのこと。

叔母はその翌日もまた同じことを言い続ける祖母に会ってから札幌へ帰りました。
私は見舞いから戻った土曜の午後、父に「なんで、さっき出てきたんだよ」「あんな 姿、晒すんじゃねーよ」など、父の叔母への想いもわかっている分、尚更きつくあた ってしまった。父の恥は叔母には私の恥でもあったから。そして怒りのあまり「もう一生、部屋から出て来るんじゃねーよ」とまでめちゃくちゃなことをなぜか言ってしまったので、その2日後に死なれた瞬間、真っ先に殺人意識に襲われたのです。やはり自分だけはごまかせないものです。父との別れよりも、実はこの罪意識の方が私には辛かったです。
母も叔母も私も父の死後、ようやく祖母の話の意味がわかったのです。父は深夜に病院に行く体力はもうすでになく、何より隣りで母が寝ていたのだから、気づかない訳ありません。つまりそれは父は父でも幽霊ということにどうしてもなってしまうのです。 父は「お義母さんのとこ(病院)へ顔出さないとな~」と、とても気にしていたらしい。
そこで時系列の検証ですが、男の人が現れたというのが金曜日の深夜から土曜日の未明にかけてで、父が密かに好きだった叔母と(過去を知られて初めて)の対面がその朝に迫った時点で、どうやら父は死の覚悟を決意したようなのです。確かに(好きだった分)一番会いづらい人がやってくるのだから、消えたくもなるのは私にもわかります。それ でその真夜中に今までお世話になった祖母へ、母へのお詫びも兼ねて、最期の別れの挨拶の想いが魂となって、祖母の元に現れたと思うのが一番妥当な見解なんです(何十年も毎日ずっと続けてきた新聞の天気図の切り取りが金曜日付けで終わっていたことからもそう思われるのです)。

ということは、弁解になりますが、土曜の昼に私に何を言われようが、もう朝には死の決意はしていたようなので、私に怒鳴られた事は直接の動機とは無関係にも思うのです(助長はしたかもしれませんが)。 すると土曜日の夜に、昼に怒鳴ったことを謝った時「もう、そういう問題じゃないん だ」の意味も若干繋がってもくるのです。祖母のホラーな証言が、私の罪の意識を少し和らげてもくれたのです。うちの祖母は俗に云う霊感がスゴいんです。昔、その時刻には亡くなってた常連さん が、祖母の店に現れ、お酒まで買っていったそうな。祖母は全くのボキャ貧の口下手で、「(母の料理に)これ、うまくね(まずい」」「(年頃の従姉妹に)あんま太ったね」など思ったまま、見たまんまをヅケヅケと言う人でしたが、話を盛って人を楽しませたりする人ではないんです。

父が逝った日の母の外出先も、この祖母の世話の為の病院通いでした。たまたま帰りにデパートに立ち寄ってしまい約1時間のロス。別に買いもしない冬物を見てたらしく、直帰ならまだ命だけは救えたのかもしれないのです(たとえ後遺症は残っても)。世の中ホント「~に限って...」がつきものです。母はこの事を今でも悔やみきれず、あと(父が叔母を好きだった事実を私が教えたら2日前に妹(叔母)に会わせたこともとても後悔しており、突然泣き出すこともあります。
そんな母を私が感心に思うのは、父に対しては最後まで冷静で全く怒らなかったこと。ま、根っから愛してもなかったと言われればそれまでですが、それよりも全く罪のない私の異母姉が不憫でならないらしく、わが夫のせいで色々寂しい想いをさせたのではないかと、とても気遣い、申し訳なく感じているようなのです。 今は姉さんの方が市内の総合病院で准看護師さん、妹さんの方は俗に云う夜のお仕事 をされてました。どちらも所謂シンママで、私は離婚の原因の9割方は夫側にあると 色々見聞上思ってますので、全然気にはしませんが、何度かお会いして、両家族とも明るく暮らされていて、それだけは安心しました(お母さんという人はすでに他界、実は既婚の身で 歳下の父に迫ったのはそのお母さんの方だったそうで、その夫とは別れても結婚は父の方がずっと拒んでいたとのことでした)。 共通点はお互い父の被害者であり、親近感が湧きました。身内も亡くなったり疎遠になる中、新しい家族が増えた感じで、少し嬉しくもさえあるのです。 昔、父が生徒をよくうちに連れてくるので「よその子ばかりじゃなく、たまにはうちの子も可愛がったらどうなの?」とよく怒っていた母でしたけど、今は彼女らがわが娘のようにも思えるのだそうです。

父の自死の一連を総括すると、私は憎しみを持たされたことが一番の不運にも思っ ています。誰だって好き好んで実の親を恨みたくなんかありませんよね。 そんな話、知らぬが仏で良かった。ここまできたら隠し通せよ。墓場まで持って行けよな。 やはり人は死ぬ前には潔白でありたいものなのか?これがうちら家族への精一杯の誠意のつもりなの?
研究熱心で、風変わりな授業で生徒からも慕われた、家でも温厚な(実は無関心なだけ) 先生が闘病の末、まだ若くして逝去(享年55歳)(葬儀で、故人を悼むことばに使われた文章です)。
というそんな美談のまま、人生の幕を閉じさせたかった。
じゃあ許せよ(あんなに怒り狂うなよ)。
確かに...そこは猛省してもしきれないくらい。でも隣りのおじさんなら許せます。 「それはあなた、いけませんよね~」ぐらいの他人ごとで流せる。しかしやはり実の親となるとそうはいきませんでした。「わが子だからこそ本気で叱る」みたいな感情です。情状酌量の余地はありますよね?(えっ!ない?)。

当時は「自分は生きてていいのかな?」
そればかりを考えていました。
でもホントに母が「一緒に死のう」と包丁をもってきた時には、さすがになんとか力づくで抑え込みました。
まさか父もあの世から「お前たちも死んで来い」とは、いくらなんでも言わないと思うし、もし目の前での出来事だったのなら、1億%止めたから、自殺の教唆や幇助ではないにしても「死なせてしまった」という自責(落ち度)だけは未だに消えることはありません。ドラマとかで「あんたが殺したようなものよ」という台詞には、今でもドキッとしたり、胸がつまる。 「あんたの分まで生きてやるよ。母の面倒もな」くらいの強い気合いでいないと、今でもたまに潰されそうになる。
あれ以来、もう心から笑ったことがない。いや笑えなくなってしまった。楽しい時ほど想い出してしまうから。自分はもう幸せになってはいけない気にもかられてしまいます。

これからをどう生きるか? それまで私は金の亡者で、多い時にはバイトを3~4つも掛け持ち、稼ぎまくっていました。趣味が貯金なくらいで、お金が何より信頼できるものにさえ思ってまし た。 しかし「失った命はおカネでは戻ってこないこと」を知ってからは「損や無駄さえなければいい」程度にお金の概念は変わり、物欲は殆ど失せました。
何か世のためと奉仕心が芽生え、様々なボラに参加したり、環境やエコに関心を持ったのも父の死がきっかけでした。
救えなかった、いえ、助けようとしなかった父の命。だからその分、新しい命を植えたり、撒いて育てる植樹や農業が、これからの私の償い方や使命にも感じたのです。 今でも食後ただ捨てられるだけの野菜や果物の種を鉢に植えるのが趣味で、全くの自己満だけど、なんか命を救った気持ちにもなり、芽生えた新しい命の姿が父の甦りや 化身にも映る。 あれから「いのち」には敏感になった。痛ましい事件を聞く度、その「傷み」が少し は感じるようにもなった。

今より更に冷酷無比な性格だったが、あの日以来、無性に誰かに優しくなりたくなった。父の死は自分に一番足りなかったものを気づかせてくれた。

あれからもう21年、いくらかは優しくなれたような気もします。
とにかく私はあの日を境に、少しでもまともに生きること。父の死をわずかでもプラスに変えることこそが何よりの父への供養に今は思えるようになりました。

なぜ今、こんな赤っ恥をあえて書いた理由と伝えたいこと。今でも朝からピーカンな月曜日、抜けるような秋の空、そして日本シリーズにはどうしてもあの日を想い出してしまう。

そして今日が祥月命日なのです。実はあんな悪夢の日々でさえ、今ではあの時の自分が懐かしくも感じるのです。それはあの人生最悪を乗り越えられたと思うと、 これからのどんな困難も乗り切れそうな自信にもなるからです。そして昨今のメディアの不倫騒動の大きさからも、現在もわが国では不倫にはとてもシビアで非常識かつ不寛容な行為という認識であることもわかり、大変嬉しく思ったのです。なぜなら私のあの時の父への怒りも当然の感情とリアクションを肯定された気がして、長年の自責の呪縛から解放されたからです。異性の友人にも全てを話したら「お父さん...あり得ない。私ならうちから追い出す」と。さらに「お父さんが向こうで成さんを憎んでる訳ないっしょ。逆に二人に詫びてると思う」とまで言ってくれたので とてもラクになれました。 これからもこんな国民性や社会であってほしいし、どうしても日本国憲法の改憲なんかをしたいのなら「不倫は極刑」と加えてみたら? それでもやめられないのなら、命懸けの覚悟でアバンチュールは臨むべし!しかし最後は自身も周りも破滅させることだけは保証します。

またこの国の若者の死因の最大理由が自死という現実を皆さんはご存知でしょうか?何ともやりきれない深刻な事態です。
若さゆえに早まってしまった人の多くはたぶん、あの世で衝動的判断に後悔していると私は思っています。人間考えは変わるもの。もしも逝きたい衝動にかられたら、一年先の自分を想像してみてほしい。その悩みがまだ続いているかを。まずは一年だけでも待ってみませんか?と若者には声を大にして伝えたいです。
またその度に数倍発生してしまう自死遺族の方々。最近始めたThreadsに、ある娘さんを自死で亡くされたお父さんの悲痛の嘆きや辛さの言葉の数々深く共鳴してしまい、今回、私の体験も書かずにいられなくなりました。

こちらのnoteでおなじみ岸田奈美さんも早くに急逝されたお父様との最期に投げかけられた言葉をとても悔やまれていらっしゃることを知り、私と境遇が似ていて、それでもいつも明るく前向きな彼女にはとても生きる励みを戴いています。彼女と私との最大の違いは彼女はホントはお父さんを大好きだったこと。私は父への憎しみがあった(許せない状態だった)こと。前者と後者での永遠の別れの迎え方は全くの別物なんですけどね。

今言えるのは、どんなに憎いと思う人がいたとしても、実際、目の前で死んでしまう と、かなり焦るもので、憎んでしまった悔いだけが残ります。その意味でもやはりできる限り、人は恨むものではない、つまりは人を許すということの大切さを痛感しました。いざ死なれると大概なことは全然大したことなく感じるはずです。私には父の不倫や隠し子騒動でさえすっかり霞んでしまいました。

そして「人はまたいつ、どこでお世話になるかわからないから、喧嘩別れだけはするな」と昔からずっと両親から教えられてきましたが、それがまさにY叔母さんでした。 特にずっと嫌っていたり、いけない事だけど下に見ていたような人に助けられた時ほどバツが悪かったり、自分がみじめで許せなくもなるものです。やはりどんな人とも分け隔てなく平等に接することを心掛けたいものです。

あの日以来、暫くすっかりもぬけの殻だった母を知ったある方から故瀬戸内寂聴さんの法話集のCDを戴いたのです。彼女には今でもとても感謝しています。それを聴きながら母はクスッと久々笑い顔を見せたからです。


そんな寂聴さんも、以前はそれこそ不倫でわが子まで見捨てた罪作りなお方で、さらにお父さんにお金の支援を求めた時、そのお金を用意する為の外出先でお父さんは亡くなられたらしく、以前「私が父を殺したようなもの」と話されていて私にも心境が似ていて共感できるのです。 そんな彼女も余生は体を張って戦争反対や死刑制度の廃止を訴えられたり、いのちの尊さには真正面から向き合ってこられたお方でした。そんな彼女の生きざまからは「人間いつからでもやり直せる」という希望も私に与えてくれました。「私も生きてていいんだ」と思えた瞬間でもありました。彼女の法話では「忘己利他(もうこりた)」とよく仰っていました。一瞬「もう懲りた」にも聞こえますが、意味は字のまんま「自分を忘れて、他の人の利になることをしなさい」 という意味。

まさに父の死後の私のモットーにも感じました。


私の言えない、癒えない傷...。
♬本当の悲しみに出会う度 (人は)優しくなる

FEEL ME  by谷村有美さん
この歌詞を信じて、これからも償いながら、生きていこうと思っています。

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