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暗澹を祓う 第一話

《あらすじ》
幕末の激動の時代。
姉と長屋に住むわたる青年は、亡き父がしていた祓い屋としての一面を持つ。しかし、父は亘が幼い頃亡くなったこともあり、知識や技術は何一つない。見よう見まねで祓い屋の仕事をしているとき、アキと名乗る若者に出会う。性別不明の美しい若者は、「私には祓いの知識がある」と言って、亘を引っ張りまわすが、怪異の正体は人間ばかり。しかし上野戦争後、「アキに似た者が死体を食っていた」と耳にした頃から、アキも落ち込みがちになり、亘は再び一人で祓いの仕事をする。
アキは一体何者なのか。

 一

 するりと冷たい風が首もとをなでて行く。
 震える身を抱きしめるように、小袖に入れた両腕に力を込めた。思わずため息をつく。温かな吐息は、あっという間に霧散した。
 もう少し着込んでくればよかったかと思う一方、安請負しすぎたかと思う自分がいる。
 慶応四年。新年を迎え、本来ならめでたい雰囲気に包まれるはずの江戸は、旧幕府軍と新政府軍が争う、近年では稀にみない内戦状態のせいでどこか暗い。戦地ではないとはいえ、将軍である徳川慶喜が辞職を願い出たり、京の街では暗殺が横行していると聞いたりと明日は我が身、という不安が嫌でも常につきまとう。
 平和な世の中を生きてきた人間にとって、ここ最近江戸に流れる空気はひどく重い。明かりを失った闇の中を歩いているような世の中では、ほんの些細な噂が火種となり、大火につながる傾向があるからだろう。
 男は、再び息を吐く。そうしていないと落ち着かなかった。
 黒髪に雪が舞い落ちる。以前と比べ、総髪の者が多くなってきたとはいえ、それでもまだ一部だ。ましてや町人でありながら、医者でもないのに総髪に髪を結わえる髪型は、そう多くない。
 二十代半ばである男のその髪型は、一部の人間には不評であった。
 今回の依頼主もそうだ。
「夜な夜な庭先で赤い目を見る」という依頼を受け参上したが、おそらく物の怪や怪異の類ではなく、獣だろうと予想できた。
 それでも、久々に入った祓い屋の仕事に力まなかったかと問われれば、強く首を縦に振ることはできない。
 再び、冷たい指が這うように風が吹く。
 壁に背を預け、簾(すだれ)で身の回りを囲い「赤い目」を待つ。降り始めた雪は、しんしんと頭上から舞い落ちる。
 これは、なかなかに堪えるな。
 ほうっと両手に息を吹きかけるが、暖かさは長続きしない。
 より一層、身を縮ませながら男――亘は依頼が入った日に思いをはせた。

「もしかして、我が家の財産を狙う妖怪なのかもしれない」
 町人地で武家屋敷と見まがう立派な屋敷を持った五十代後半の男が、真剣な面もちでそう言う。真新しい畳の匂いがする客間に通され、事情を伺ったときのことだ。身にまとう着物は、おろしたてのようで、色あせた様子もましてやよれた様子もない。羽振りがいいのは一目瞭然だった。報酬も期待できそうだと思ったとき、喜ぶ姉の顔が脳裏に浮かんだ。
 亘に祓い屋としての仕事が入ったのは、本当に偶然だった。普段は、火除けなどのまじないの札を書いたり、木片で子供のおもちゃや根付けを作って細工をする職人へ売ったりしながら、ほそぼそと生計を立てているのだが、珍しく父を尋ねてきた人がいた。
「こちらに腕の立つ祓い屋がいると聞いたんですが――」
 そう長屋で聞き込みをしていたのが、依頼主が出した使いの者だった。
 亘の父は、町人でありながら祓い屋として、このあたりでは名を馳せた人だった。両親が亡くなるまで住んでいた家は、今は他の人間が住んでいる。よくここまで探し出せたと思わずにはいられない。
「では、その怪異。お祓いいたします」
 額に畳の目が着きそうなほど、深く頭を下げる。
 依頼人は、最近江戸で店を構えた呉服屋の主人だ。もし、この依頼を成功させれば、腕のよい祓い屋として名をあげることも夢ではない。
 依頼主の話によると、丑三つ時の頃に物音で目を覚ましたという。
「わたしは眠りが浅い方でな。物音には敏感なのだ」
 依頼主は、一定の時刻になったら離れにある自室に人を寄せ付けないようにしていた。店の主人である依頼主の自室が離れにあるのも、そのせいだろう。
 ただ、屋敷から離れのある方を見ても、庭の草木によって腰丈ほどは隠れている。離れを囲う低木を見ていると、絶対にだれも近づけさせないという強い意志を感じる。
 物音は、そんな低木をかき分けるような音と離れの周囲に敷き詰めた砂利を踏む音だったという。
「最近、雇ったばかりの使用人がなにも知らずに来たのかと思ってな、外に出たら茂みから赤い目玉がこっちを見てたんだ」
 依頼主直々の案内のもと、離れの部屋を見せてもらったが、これといって何か異様な気配を感じることはなかった。
 店の主人の部屋にしては殺風景な場所で、あまり生活感がない。ふすまを開け、庭先を見せてもらう。
 庭先も室内同様、なにもない。低木が垣根のように囲っているだけだ。使用人を入れたくないのか、庭の隅の方は丈の長い枯れ草が寂しげに延びていた。
「あのあたりだ」
 そう言って、特に説明を求めなくても依頼主は勝手に当時の状況を説明してくれる。
 依頼主の指さした方を見たとき、思わず眉をひそめた。真四角の石垣が枯れ草に埋もれるようにある。膝丈ほどの高さがあり、蓋をするように木の板が並べられている。
「あれは?」
 そう問えば、依頼主は「ああ」と何でもなさそうに声をあげる。
「井戸だ。前の住人が作ったものらしく、掘り抜きの井戸だが海水が混じって飲めない。火消し用にしているが、まあ使うことはほとんどないな」
 井戸、か。
 水の妖怪のしわざ――なんて一瞬脳裏をよぎり、頭を振る。
「では数日間、この場で見張らせていただきたいと存じます」
 そう言えば、依頼主は明らかな難色を示した。
 眉間にくっきりとした皺が刻まれ、怒ったような顔になる。
「それはいつまでだ?」
 そんなことを言われても困る、と口にしたかったがぐっと飲み込む。
「……脅威がなくなるまで」
「それではいつ終わるかわからないだろ」
 声を荒げる依頼主を静かな面もちで見つめる。
「お言葉ながら、この怪異の原因を調べなければ安心した生活は戻りません。飛脚に一日で京へ行けと行っているようなものです。無論、すぐに気休め程度の守護をかけることもできますが、根本的な解決には至らず、結果、命を失う可能性もございます。それも含めて了承の上ならば、あれこれ言うつもりはございませんが」
 淡々と言えば、依頼主は眉間に深く皺を刻んだまま、こちらを睨んだ。何か言いたげに口をもぞもぞとさせるが、結局それらは言葉にならなかった。代わりに「ずいぶんと腕に自信があるのだな」と言われる。
「聞くところによると、才覚があったのはお前の父親だっていうじゃないか。お前自身の話は聞いたことがない」
 それはそうだろう。父は、亘が十三のときに流行病で死んだ。今から十四年前のことである。だからこそ、今になって父を訪ねに来た人がいたことが驚きだった。
「おっしゃるとおり、わたしは未熟者ではございますが、父が皆様の心の支えとなったように、そうなりたいという気持ちだけは常にございます」
「気持ちだけではどうにもならんだろ」
 男は声を張り上げた。そこには明らかな侮蔑の色がにじんでいる。
「商売なら結果がすべてだ。そんな気持ちの問題で片づけられるほど簡単な仕事なら、誰でもできるだろうよ」
 依頼主は、さらに言葉を重ねようとしたが亘の方を見て口を閉ざした。
「――なるほど。〈鬼睨み〉とはよく的を射ている」
 独り言のように呟かれた言葉は、嫌でも亘の耳に入った。
「わかった。お前の気が済むまでやってくれ」
 亘は眉間に皺を刻んだまま、頭を垂れる。
 依頼主は目の前の男であり、困っているからこその依頼のはずが、何となく亘のわがままで調査するような流れになっている。腑に落ちない感情が胃の辺りに重く居座るが、どうするすべもない。
「――ありがとうございます」
 釈然としないまま、亘はそう言った。

 そして今、雪が舞い落ちるのと同じように、後悔の念が静かに積もる。時刻はそろそろ丑三つ時だろうか。ふいに、このまま見張り続ける夜が続いたら、体が持つか不安になった。寺や神社の僧侶や神主と違い、一介の町人が行っている祓い屋は、交代できる要員がいない。体を壊せば、依頼は中断せざる終えなくなり、依頼主からの評価は一気に喪失する。
 あの依頼主なら、間違いなくそうなるだろう。
 久々の祓い屋としての仕事だ。どうしても成功させたい。懐から手ぬぐいを出し、首に巻こうかと思ったときだ。
 がさり、と音が聞こえた。簾の隙間から音のした方を見る。おそらく井戸のある方だ。が、暗くてよくわからない。犬や猫だろうかと思ったが、ここは屋敷の敷地内だ。屋敷を囲う塀が進入を拒むだろう。
 飼い犬や猫がいるとは聞いていないしな――。
 音は井戸の方から聞こえた。生け垣をくぐり抜けようとしたなら、もっと物音が続いてもおかしくない。しかし、亘の耳に届いたのは、短い物音ひとつだけだった。
 目が利かないのなら、耳を使うしかない。
 こちらの存在を知られれば、隠れてしまう可能性がある。亘は、洟をすすりたくなるのを我慢し、静かに目を閉じた。耳に集中する。ぽつぽつと、肌に当たった雪が体温で溶けるのを感じながら、「赤い目」の正体が現れるのを待つ。
 そのとき、二度三度と続けて垣根を押し通るような音が静寂をさいた。びくりと肩を揺らす。とっさに懐の小刀に手を伸ばした。
 父の形見だ。
 鍔がなく、成人男性の片手ほどの刃しかない小刀の柄には、昇り龍と文字のような模様が刻まれている。今にも動き出しそうな龍の姿は、繊細でありながら一切の欠けも傷もない。
 一方、鞘には模様などの細工はなく、無数の細かい傷あとが模様のように重なり合っていた。
 この小刀は、父の仕事道具だった。だが、どうやって使っていたのかは知らない。
 再び、がさりと音が鳴る。
 もし、本当に人ならざるものだったら。
 そう思ったら、鼓動が早鐘のように鳴り始めた。小刀を握る手が、氷のように冷たい。震え出す体を叱咤するように、小刀を握る手に力を込めた。
 亘は、妖や物の怪、呪いといった、祓い屋が対峙しなければならない存在をよく知らない。そればかりか、もし仮に存在したとして、その祓い方もよく知らない。
 父は祓い屋としての技術を何一つ継承しないまま、逝ってしまった。亘が祓い屋を継ぐと決めたのは、両親の死後だったのだから、当然と言われれば当然なのだが、家業を継いでほしいと思うなら、幼少期からさまざまなことを教えていてもおかしくはない。
 だが、父は家で仕事の話は一切しなかった。父が祓い屋だったことも、死後知った。
 ならば、なぜ祓い屋をしているのか。
 それは、姉のためだ。
「父さんのことが、今でもこうして人の口から語られるのは嬉しいものね」
 六つ歳の離れた姉のみつきは、狭い長屋の一室で朝食をとっているとき、人づてに父の話を聞くと決まってそう言う。
 突然両親と幼い妹が亡くなり、姉(きょう)弟(だい)が路頭に迷いそうになるところを必死でどうにかしたのが、この姉だ。縁談の話もあったのに、流行病で親を失ったことから破談になり、必死に働いた結果、体を壊した。
 姉が喜ぶことなら、なんでもやってやりたい。そう思い、多少聞きかじった程度の知識で祓い屋をしている。
 だが、姉に滋養のあるものや薬を買ってやりたいと思うなら、祓い屋をやめ、稼ぎのいい仕事をした方がずっといいのだろう。だが亘は、なかなか踏ん切りがつけられずにいる。
 もちろん、その代償として命を落とすつもりはない。
 姉を不幸にするつもりは、みじんもないのだ。
 亘は、覚悟を決め飛び出した。鞘を抜いた小刀を握りしめ、立ち上がる。
「何者だ」
 簾を蹴り飛ばしながら駆け寄れば、井戸のあたりにいた陰が、びくっと跳ねた。逃げられるより先に、距離を詰める。
 井戸の脇にうずくまっていたのは、十三歳くらいの子供だった。
 厚い雲が空を覆う夜でも、淡い光を放っているような白い着物を身にまとい、長い黒髪を後ろで一本に結っている。亘を見る目は不安というより、こちらを吟味しているようである。この暗さでは、目の前の子供が男か女かもわからない。ただ、目は赤くなく、薄着で寒そうに見えた。
「こんなところで何をしている?」
 異形の妖でなくてよかったとそっと胸をなでおろしながら、純粋な疑問が口を出る。極度の緊張から解放されたせいか、子供がこんな時間にひとりで、しかもこんな屋敷の奥まで潜り込むのはおかしい――そういう考えには至らなかった。
 子供は、うずくまったまま、だけども視線だけは亘を捉えた状態で薄い唇を開く。
「さがしものだ」
 草木が寝静まる夜に不釣り合いな声が耳に届く。声を聞いても、男か女かはわからない。どちらでも捉えられる中性的な声だ。
「なにを探している?」
 そう問えば、口を閉ざしてしまった。言いたくないらしい。嘆息すれば、温かな空気が鼻先をかすめ消えた。構えていた小刀を仕舞う。
「お前、前にもここに入ったか?」
 依頼主が赤い目を見たという時期を伝えれば、しばらくの沈黙のあと「――おそらく」と返ってきた。ならば、赤い目の正体は、目の前の子供で間違いないだろう。
 依頼主は月光の反射かなにかで、子供の目が光って見えたに違いない。
 ――もしくは寝ぼけていたか。
 どちらでもいい、と亘は思う。依頼は完遂したようなものだ。安堵感が全身を包む。肩の力がふっと抜けた。
 亘は、子供と目を合わせるようにかがむ。
「いいか、ここは人の家の中だ。勝手に入り込むことは良いことではない。それに、こんな時間にうろついていると妖怪だと間違われて殺されても文句は言えないぞ」
 わかったら、二度とこんな時間に人の家に入り込むのはやめろ、と忠告する。子供は、大きな二つの目でじっと亘を見たまま、静かにその言葉を聞いていた。いきなり現れた見知らぬ男に怯える素振りも、警戒する様子もない。
 変な子供だ、と思いながら「返事は!」と言えば、「わかった」と渋々といった様子で答える。
 亘は、相手に気づかれないようふっと笑みをこぼすと、その頭に手を乗せ犬猫のようになでた。
 子供は好きだが、目つきが常人より鋭いせいか怯えられるのが常だ。この暗闇のおかげで、目の前の子供は亘を前にしても逃げなかったのだろうと思う。
「なぜなでる?」
 されるがままの子供が、ふいにそう言う。
「オレの言ったことを守ると約束してくれたからだ。いい子は誉めろとオレの姉はよく言う」
 ついでに感情をもっと顔に出せとも言われるが、こればかりはどうしようもない。
「なるほど」
 子供はそう言いながら立ち上がった。亘の胸あたりの背丈しかない。なでてわかるが、黒髪は絹糸のように滑らかで、腹を空かせた孤児ではないと思った。
「ここの人間に見つからないうちに、さっさと行け」
 亘は懐から手ぬぐいを取り出すと、「使いかけで悪いが」と断りを入れてから、子供の首もとに巻いてやった。雪はまだ降り続いている。ないよりはマシだろう。
「何をした」
 子供の問いかけに「寒さが増しているからな。お前が寒くないようにくれてやる」と返す。
「さあ、行け」
 そう言って薄い背中を押し出せば、子供は戸惑ったような視線を向け、一歩二歩前に進むと、そのまま生け垣を越え去っていった。
 亘はしばらくその場にたたずむ。手負いの獣を助けてやったような満足感が、胸の中に広がった。

   ◇

「あら、亘。今日はずいぶん上機嫌ね」
 箱膳の上に並べられた朝餉の味噌汁を口にした途端、みつきが弾むような声で言う。
 しょっぱかったか、と口をつけてみるがいつもと変わらない。姉は、味噌汁の味で亘の機嫌を察知する能力に長けている。不思議に思う亘を、みつきは朗らかな微笑みを浮かべ見つめている。
「図星ね。どうしてわかったか、不思議に思っているんでしょう?」
 亘は表情ひとつ変えないまま、こくりとうなずく。みつきは、少女のように楽しげな笑いをこぼすと答えた。
「今日のお味噌汁には、納豆が入っているもの」
「――たまたまこの近くまで納豆売りが来ただけだよ」
「そうかしら?」
 亘は、音を立て味噌汁を飲む。姉の勘は鋭い。納豆は、この時代の食事に必要不可欠な食材だ。だが、不安定な収入の亘には、毎日のように買い求めることはできない。それでも、たまに買っては味噌汁の具として使っているのだが、どういうわけか姉は他にもなにかあると勘ついたようだ。
「そう言えば、祓い屋の方はどうなったの?」
 ――さすがに、鋭い。
 内心で苦笑を浮かべていれば、前のめりでみつきが尋ねてくる。その瞳は、三十過ぎの女のものというより、天真爛漫な少女そのものだった。
「終わったよ」
 そう答えれば、ため息をつかれた。
 姉は体がそんなに強くない。無理して働いた結果だ。その無理をさせてしまった自覚があるため、亘はみつきに頭があがらない。だが、その心中を察することは苦手でよくこうしてため息を吐かれる。
「うん、それはわかる。そうじゃなきゃ、納豆入ってないだろうし」
 そうだろうか、と心の中で首を傾げる。
 だがみつきの言うとおり、収入のあてができたからいつもより少し多めに買ったことは事実だ。
 みつきは箸を膳の上に置く。つられて、亘も箸を持つ手を止めた。
「わたしが聞きたいのはね、結果じゃなくて内容なの。どういう依頼で、どうやって対処したのか聞きたい」
 亘の背筋が自然と延びる。
 姉も父の仕事が祓い屋だったことは、父が亡くなったあとに知った。亘がその跡を継ぐと知って、泣いて喜んだのがみつきだ。みつきもどうやって祓い屋が仕事をするのか知らない。だから、その詳しい内容を知りたいのだろう。自身が修得するためというよりは、興味本位だ。
 だが、亘自身も語れることは少ない。
 父の遺品は、小刀の一冊の本。そこにはよくわからない文字のような模様が描かれており、「魔除け」「火除け」「雷除け」などの短い言葉が添えられているだけだった。
 亘は、そんな模様を紙に書き、祓い屋の仕事がないときは売りに出している。
「それで、どういう仕事だったの?」
 眩しすぎる姉の視線から目をそらし、亘は「依頼主の名を落とすことになるかもしれないから、言えない」と口にした。
 みつきは、不満そうに眉根を寄せていたが、しつこく食い下がることはなかった。
 実際、そうなる可能性は十分にある。ましてや店の主人ならなおさらだろう。狭い長屋の一室を借りて生活をしている以上、肉親しかいないと口を滑らせたら最後、薄い壁の向こうで耳を立てられていた、なんてことはあり得るのだ。
「残念ね」
 みつきは再び箸を手に取り、茶碗に手を伸ばす。
「亘の活躍を聞きたかったのに」
「別に、大したことはしてないよ」
 まさか一晩で解決できるとは思ってもいなかったし、実際祓い屋でなくても解決できる内容の依頼だった。だからこそ亘でも解決できたのだが、祓い屋を名乗っている以上、複雑な感情が胸の奥で石のように残る。
 ――このまま祓い屋を続けていいのだろうか。
 姉の体のこと、生活のことを思えば答えは出ている。それ以前に、祓い屋としての技術や知識がない亘が、祓い屋をすること自体に無理がある。
 答えなど決まりきっている。だが、一向に踏ん切りがつかない。
「――本当に、大したことはしていないんだ」
「何か言った?」
 みつきが不思議そうな顔で亘を見つめる。
「別になにも」
 そう言って、亘は茶碗を持つと少し冷めた米を口の中にかきこんだ。胸の内側に掬う、不安の塊を少しでも飲み下すように。

 頬を刺すような冷たい空気に身が震える。亘は、襦袢の上に小袖を二枚、さらにその上に半纏を羽織っていたのだがそれでも寒い。特に、顔や手など肌が出ている部分は、外気に触れるだけで肌が痛む。
 ペリー来航から十五年。海を渡ってやってきた人間が、江戸に居住を構えることもそれなりに増えた。この国の人間とは明らかに違う容姿に言葉、仕草に最初は戸惑うことも多かったこの国は、たった十五年で大きく変わろうとしている。それは、国の中枢人物だけでなく、この国に住む者なら誰でも感じとっていただろう。
 約三百年、揺るがなかった徳川の時代が終わりを迎えようとしている。御上の言うことをおとなしく聞いていれば、飢えて死ぬことも寒さで凍え死ぬこともないと心のどこかで信じていたことが、今消えようとしている。
 大都市江戸に住む人間は、約百万人。御上のお膝元であるこの地が、戦地になるのではないかと噂する声は意外と多い。
 江戸を離れる者もいる中、先祖代々暮らしてきた人間にとって、そう簡単に決心できる問題ではない。そんな世で、強く人々の心に不安が落ちれば、噂にあがってくるのが妖怪や物の怪といった類の話だ。
 白い息を目で追う。厚い雲は、朝になっても空を覆っている。昨夜降り出した雪は、そこまで積もらなかった。長屋の屋根や一日中日陰になる路地、川沿いにはうっすら積もっているものの、気温が上がればすぐに溶けるだろう。雪が降って喜ぶ子供たちの声を聞きながら、まだ踏み荒らされていないわずかな純白を見る。
 白、という色から思い出すのは昨夜の子供。
 後ろでひとつに束ねた髪は、それなりに量が多く、背中で広がる様子は子供と一概に言うには艶があった。
 まさか、あれが妖怪か?
 いや、そんなはずはないと一人首を横に振る。
 妖怪を描いた絵を見たことがあるが、それも人の姿とはかけ離れていた記憶がある。幽霊の可能性もあるが、存在感はあったから幽霊ではないだろう。
 妖怪や怪異の類を恐れる気持ちはある。祓い屋としては失格だろう感情だが、自分のものであっても胸の内で沸いた感情は制御できない。
 だが、ああいう姿の妖怪なら――。
 亘は、昨夜の子供の姿を思い描く。冬空の下、冷たい空気が昨夜の記憶をはっきり色づかせる。
 ――無害な妖怪なら、捕まえていろいろ問うてみたいものだ。
 祓い屋としての技術や心構えを教示してくれるあてもない亘にとって、もはやそれしか方法はないように思えた。
 大通りに出ると、行き交う人の数はぐっと増える。寒いからと家の中に閉じこもるのが性に合わない江戸っ子も多い。
 人混みを縫うように子供たちが駆けて回っているかと思えば、路地で羽子板や駒回しをして遊んでいる子供もいる。大通りには商店の他に、団子やしるこなどの甘味から、そばや天ぷらなどの軽食までさまざまな屋台が並ぶ。
 通りすがりに、そばをすする音を聞きながら、亘は目的の場所まで向かう。肩がぶつかりそうなほど人であふれているにもかかわらず、亘の周囲は不思議と空く。背が高く、鼻筋が通っている亘は、西洋人と間違われることがたまにある。今もその勘違いが生じているのだろう。じろじろとこちらを見る視線が痛い。
 経験上、気にするだけ時間の無駄なので、そのまま無視して行く。
 依頼主の店兼居住宅があるのは、神田方面。神田川に近く、町人地と武家地の境目付近にある。武士ではない庶民は、町人地に押し込められるように住んでいるが、行き来を制限されているわけではない。ただ、用がなければあまり近づかないのが現状だ。
 心なしか、人の数も少なく感じる。世が世、だからだろうか。
 亘は、店ののれんをくぐった。
「亘という。旦那はいるだろうか」
 駆け寄ってきた丁稚にそう言えば、狐を思わせる顔つきの成人男性がやってきた。ひょろりと背が高く、面長で細い目をしている。依頼主ではない男の登場に、嫌な予感がした。
「何用ですか?」
 その声には棘があった。依頼人の中には、秘密裏にことをすませたい者もいる。どうしたものかと押し黙っていると、男の視線がさらに鋭さを増した。
「用件がないのなら、お帰りください」
 ぴしゃりと蠅を叩くような声で言うと、男は亘に背を向けた。また来ればいいかとも思ったが、この調子が続けば妙な客と怪しまれるのは必然だ。
「伝言を頼みたい」
 男は訝しげな視線を向けた。
「請け負った依頼が解決したから、報告をしたい――そう伝えてくれないか?」
「わかりました」
 男はさっさと店の奥へ引っ込んでいく。取り次いでやってくるものだと思っていたが、一向にその様子はない。
 腕を組み、出入り口の隅の方で待つ。その間にも、何人か客だろう人間が出入りする。そのたびに怪訝そうな視線を向けてくる者もいれば、亘を西洋人と見間違えているのか、距離をとる者もいる。
 亘は、半纏の中で組んでいる腕をつねった。居心地の悪さを感じるが、出ていくわけにもいかない。
 亘の脳裏に、依頼料を踏み倒されたときのことが浮かぶ。あれは、住み始めたばかりの家から奇怪な音がするという依頼だった。どういう現象が起きているのか聞き取り、実際に調べた結果、軒下に狸が住み着いていただけだった。亘はその事実を伏せ、狸を自然の多い上野まで行って放したあと、祓い屋らしく塩を依頼主の前で撒いてみせた。成功報酬だと思っていたので、数日後尋ねたときに「音はなくなったが、金は払えない」と言われたときは目を丸くした。
「あんたは塩を撒いただけじゃないか。それならおれにもできた」と依頼主は主張し、結局代金をもらえなかったのだ。
 基本的に、妖怪や幽霊といった得体の知れない者の仕業は、僧侶や神職に頼む。おそらく金の話はしなくても、依頼主が自然と用意するのだろうと亘は思っていた。だが、庶民の行う祓い屋は、僧侶らとは違い、修行を積んだわけでも神の力を借りられる立場でもない。そのせいか、見下されがちである。
 幸いといっていいのか、人から恐れられる方向の容姿をしていることから、毎回ではない。だが、ここ最近は増えてきたように思う。
 ――店や本人の装いを見る限り、羽振りは良さそうだと安心していたのだが。
 今朝、朝餉を食べたときの姉の顔が浮かぶ。
 体にいい食べ物だけでなく、いい薬も与えたいのだ。そのためには、金がいる。
 また踏み倒されるわけにはいかない。
 唇を強く引き結んだときだ。
「あのぉ」
 まだ高さの残る少年の声が耳を打つ。視線を向ければ、ひっ、と短く叫ばれた。丁稚(でっち)の少年だろう。こちらが哀れみを覚えるほど、全身が細かく震えている。
「だ、旦那様、ほ、本日は、いない、ので、ひ、日を改めて――」
「わかった」
 少年が言い終わるより先に、亘はそう言って店を出た。子供を怖がらせるつもりはまったくないのだが、目元が鋭いせいで相手が萎縮してしまうのはよくあることだった。
 店を出てしばらく行った先で、亘は足を止め、息を吐いた。
「怒っているつもりはないのだがな」
 ぽつりと呟いた声は、誰の耳にも入らないほど小さなものだった。ただそこにいるだけで威圧感がある容姿は、祓い屋という立場上はそこそこ便利だ。しかし、私生活ではこれほど悩みの種になるものはない。
 どっと疲れが背中にのしかかってきた気がする。
 さっさと帰ろうかと思ったときだ。
 人通りの中に、白を見た。
 背丈からして子供。黒髪を尾のようになびかせ、通りを横切っていく。
 一瞬の出来事だったが、亘はすぐに昨夜の子供だと思った。目を引く白い着物を着ているというのに、人々の視線は、その子には向かない。
 亘は気づいたらそのあとを追いかけていた。
 自分でも馬鹿馬鹿しく思うが、本当に人であったという確証がほしい。もし、人でなかったら――。そのときは、祓い屋としてまた一歩、奥地に進める気がした。
 江戸の街は複雑だ。特に人の居住区、それも庶民の住む町人地はところ狭しと家屋が並ぶ。その中でも、人一人が通れる道があったかと思えば、行き止まりだったりする。
 待て、と声をあげようとして口つぐんだ。先ほどの丁稚の怯え具合が頭をよぎる。怖がらせることは、できれば避けたい。
 しばらく右に左に細い路地を行くと、いつの間にか武家地の方へ入り込んでいたらしい。町人地にはない、立派な門構えと広大な敷地に思わず後ずさる。まだ旗本の屋敷なので、質素な方なのだが亘にはどれも同じに見える。
 ――あまり長居したくないな。
 目をすがめ、来た道を戻ろうと振り返ったとき、目の前を十歳前後の男児が駆けていった。「早く早く!」と呼ぶ声に「待ってよ」と笑いを含んだ声が返る。
 一瞬のできごとだったが、過去の思い出に浸るには十分だった。
 ――三春(みはる)。
 亘は、小さくなる背中に在りし日の自分を重ね見る。
 ちょうどあのくらいの年齢だった。当時の亘は、近所に住む三春という少年といつも一緒に遊んでいた。
 彼はとても明るく溌剌(はつらつ)とした男児だった。友達も多く、人気者だった三春は、どういうわけか一人でいることが多かった亘に声をかけてきたのだ。彼のことだ、子供ながら気にかける心をすでに持ち合わせていたに違いない。
 あれは、蝉も鳴くのを控えるような、暑さの厳しい夏の日だった。
「なにをしているんだ?」
 両親が健在だったあの頃、亘やみつきは今の裏長屋ではなく、細い通りに面した小さな家に住んでいた。心ばかりの庭に井戸があったことを覚えている。
 当時から人付き合いが苦手だった亘は、よく一人で遊んでいた。一人でできる遊びは限られている。ましてやこんな暑い日は、あまり動きたくない。近所の子供たちは川遊びに出かけたのか、いつもなら子供の声が聞こえる通りは静かだった。
 大店の側面にあたる路地は、人通りも少なく日陰にもなっている。大通りに背を向け、うずくまっていた亘は、誰かが声をかけてくるとは、まったく想像していなかった。小さな肩を飛び上がらせて、振り返る。
 どこかで、蝉が短く鳴く。
 固まっている亘をよそに、その子供は亘の手元をのぞき込んだ。途端、亘の表情が曇る。
 地面に転がる無数の黒。ごまのようなそれは、潰れて丸くなった蟻だった。持っていた枝を地面に捨てる。
 群れている蟻を見ると、散り散りにしたくなる衝動が襲ってくるのだ。全部は殺さず、一匹だけ生かす。孤独の中、その一匹がどういう行動をとるのか知りたかったのだが、蟻の数は多い。
「あの、これは、その――」
 蟻を潰しているところを見られるのは、今回が初めてではない。見下したような、理解できないものをみるような、冷たく刺さる視線が脳裏に浮かぶ。
 必死に言い訳を考える亘に、その少年は「うん」とひとつ元気よく返事をした。
「たくさんいると気持ち悪いよな。おれもしたことある」
 そう言ってにかっと笑った。日陰にいるはずなのに、亘は目の前が眩しくて仕方がなかった。
「おれ、三春。おまえは?」
「――亘」
 白日の下にさらされるような気分で、亘はぽろりと言葉を落とす。
「亘、ちょっとこっちに来いよ。みんな川の方に行っちまって暇だったんだ」
 そう言って亘の腕を掴むと、ぐいっと引っ張る。釣られる魚の気分で立ち上がった亘は、そのまま三春に引っ張られる。このとき、日陰から出た亘はすべてがより一層眩しく見え始めたのだ。
 ――三春がいなかったら、今のオレはいないだろうな。
 ぶるり、と身を震わせ白い空に息を吐く。
 今は、彼と出会った季節と真逆の冬。きらめく太陽はない。
「もし今、彼がいたら――オレは祓い屋はやっていなかっただろうな」
 ふっと吐息をこぼして、裏長屋へ戻った。

#創作大賞2024
#ファンタジー小説部門


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