ライオン橋(第1話/4)
オレンジ色のル・クルーゼにサラダ油をいれ、ガスレンジの火をつける。油を熱した香ばしいにおいがキッチンに広がる。ピューラーで皮を剥いたジャガイモと乱切りにした人参、粗いくし切りのタマネギを加えて木じゃくしで炒める。ジューという音をさせ、さっきまで他人行儀だった野菜たちが、きつね色になり仲良く寄り添っている。酒とみりんを加えてから蓋をする。
水はいれない。野菜からでる水分だけで料理する。このフランス製の鋳物ホーロー鍋でコトコトと煮込んでいくと、嘘みたいに野菜が甘くなる。
料理は生きる糧ではなく、恋愛の活力というのが京(みやこ)の持論だ。好きな男の血と肉となるおいしい料理を自分が作るというのは、なんともセクシーではないか。想像するだけでカラダのずっと奥にある芯がぎゅっと締め付けられ疼く。食べることとセックスは似ている。同義語だ。だから自分のためには料理はしない。そんなのは、自慰行為と一緒じゃないか。
二十九歳の時、一度目の結婚を前にブライダルエステと一緒に料理教室に通った。ひととおり料理の基本はマスターしたが、続かなかった。結婚生活も料理も。半年後、また気楽な一人暮らしに戻った。
セットしたタイマーが鳴り、弱火にし、最後に牛肉を入れ醤油を鍋肌にそって回し入れる。デパートで買ったすき焼き用の極上の松阪牛だ。肉じゃがは、佐藤が初めて京にリクエストした献立だった。
彼が初めてマンションにやってきた時、京の作ったカレーを食べて「世界一うまいカレー」と褒めた。カレーは市販のルーを使って作った小学生でも作れる代物だった。「ふざけないで。こんなの料理のうちにはいらないよ」京は半分本気で怒った。元来、負けず嫌いなのだ。それが「ほんとうに美味しい料理をつくろう」と思ったきっかけだ。彼を美味しいと唸らせてやりたくて、愛する人に料理を作るようになった。
どんなに仕事で疲れていても、帰りが遅くても彼が部屋にやってくると連絡があれば、献立に心を砕き、十二時まで営業している近くのスーパーで買い物をして帰る。元夫は家電メーカーに勤務するエンジニアだった。休日に三時間煮込んだポトフもレトルトのパスタソースをかけただけのジェノベーゼも同じように無言で食べた。いつしか食事を作ることは、単なるノルマでしかなくなった。三十路を前に焦って条件優先で決めた相手だったからカラダの相性も味覚も会話もかみ合わなかった。離婚したのも自業自得だ。
美味しいという言葉は、料理の腕を上げる呪文なのかもしれない。「おかげでこのお腹どうしてくれる」と佐藤はベルト穴が三つも増えてしまったウエストをポンポンと相撲取りの様に掌で叩き、おどけてみせる。
「仕方ないでしょう。だって何かを得たら何かを失うもんよ」
「いや、失ってない。脂肪も得た。体重も増えた。京も」
洗い物をしている京を後ろから抱きすくめると、耳の後ろから首筋にかけて優しくキスをする。いつもそんな感じだ。
今度はひとまわり小さいル・クルーゼで米を炊く。浸水させてからざるに上げておいた米を水と一緒に火にかける。沸騰すると、弱火にする。炊きたてのご飯が一番のご馳走だと喜ぶので、一手間かけても炊飯器でなく、ル・クルーゼでご飯を炊く。一回り以上年上の佐藤に魅力を感じるのは経験とスキルを活かした仕事ぶりでも、学歴と経歴に裏付けられた自信に満ちた姿でもなく、実年齢より若く見える外見でもない。食べっぷりの良さとどんな物も美味しいと心から喜んで食べる彼の胃袋の深さに感動したからに他ならない。職場での後ろ盾ということをのぞいて。
年齢に不釣り合いな旺盛な食欲は、性欲と同様に京に向けられた愛の証だと感じている。とはいえ、家庭がある身の上ゆえ、ハッピーエンドは望んでいない。ゴールのみえる恋愛だからこそ、情熱を注げる。短期決戦。期間限定という刹那。短距離ランナーの京は既に結婚というマラソンを途中棄権してしまったのだから。
チャイムが鳴る。火から下ろしておいたご飯の蒸らしタイムの十五分を告げるタイマーとが同時に鳴り、不協和音を奏でている。ドアチェーンを外し、ドアをあける。
翌日、寝不足で欠伸をかみ殺すのに必死になっていると、突然、京の下腹部に鈍い痛みが襲った。予感して鞄から水玉模様のがま口ポーチを取り出すと、トイレに駆け込んだ。女なら誰しもこの痛みに心当たりがある。個室に入り、便座の蓋をあけ、下着をおろすと京が予想したとおりどす黒い小さな血だまりのシミができていた。慌てて白いスカートに血がにじんでいないかを確かめる。「安堵」という感情が広がる。月のものが遅れて今日で四週間だ。今週末まで待ってこなければ、ドラッグストアで妊娠検査薬を買って検査し、もし陽性の判定がでたら……そこまでシミュレーションしたもののその先は脳が考えることを拒否した。
女のカラダは、月に一度リセットされる。毎月、生理がくるとこれをきっかけにけじめをつけようと思うのだが、なかなか決断できずにズルズルと佐藤との関係が続いている。
オフィスに戻ると、内線のコール音やファックスの受信音や同僚のいい争う声が耳に飛び込んでくる。いつもとかわらない喧噪だが、こういう日には気が紛れてかえってこの騒がしさがありがたい。丁度いいBGMになる。声を言葉としては変換せず、ただ音として聞き流す。
京は今年で三十二歳になる。弁護士になって三年。大阪では中堅の渉外事務所に就職した。大阪と東京に事務所があり京の働く大阪事務所は弁護士が三十人、事務局の人間がアルバイトを含め三十数人いる。事務所に出資し、経営にも参画する十人のパートナー弁護士の下にいるアソシエイトという所属弁護士、いわゆる居候弁護士の「イソ弁」の中でも下から数えた方が早い下っ端の弁護士だ。
給料制のアソシエイトにも経歴や所内での評価に応じて序列があり、稼ぎ以外にも、メディアへの露出度、論文や書籍なども評価の対象になる。大きな案件を引っ張ってくるコネクションも実力とされているが、何もない京は常に厳しい立場に立たされている。
就職難の法曹界でこんな事務所に就職できたのは奇跡だと内情を知らない同期に陰口を叩かれている。エリート揃いのこの事務所で京は異端児だ。関西の二流私大のロースクール卒で、しかもラストチャンスの三度目の司法試験でギリギリ難関を突破した強運者だ。そんな崖っぷちを採用するなんて事務所始まって以来の珍事だったらしい。パートナー弁護士でリクルート担当だった佐藤に拾われた。
いつもそうやってギリギリのところで、自分の容姿と運に助けられてきた。小学生の頃は担任の男性教諭にえこひいきされ、通信簿はパーフェクトだったし、中学・高校でも顧問の教師から吹奏楽部の部長に何故か指名された。大学入試も学年主任の後ろ盾で、推薦枠で行けることになった。物心ついた頃には、自分の付加価値を上手く活かせるようになっていた。いつも危機に瀕する姫をホワイトホースが助けてくれる。それに反比例して女友達は減り、一匹狼を希望した訳でもないのにひとりぼっちになっていた。それでも寂しいと思ったことはない。
午後に予定されている尋問に神経を集中させる。姉弟間の不当利得返還請求事件だった。相続財産である預金を、相続開始前に弟が一人で下ろしていた事が後から明らかになり、京の依頼者である姉が、被告の弟に返還を求めている事件だ。被告が銀行で引き出した経緯、それを原告が知った経緯など、京が作った尋問事項を元に何度も依頼者と打ち合わせしていた。
法廷に立つのは初めてという人が大半であり、いざ証言台に立つと緊張するのでとにかく、落ち着いて自分が聞いた事に答えるだけでいいとアドバイスしていた。
法廷での尋問がおわり、次回期日を決める。裁判官が原告、被告双方の代理人に、
「一番近い期日で、一ヶ月後の十一月十日でいかがでしょう」
と、聞くと間をあけずして
「差し支えます」
バリトンがかった声で被告代理人の男性弁護士が答えた。熊みたいにどっしりとしていておまけにあの声だから何だか説得力がある。何を言っても。尋問でも一歩も二歩もリードされた感があった。
「じゃあ、十七日の午後はいかがでしょう」
裁判官は今度は男性弁護士の方をみて、ついでに京の方をみた。今度は京が答える。
「すみません、終日出張で不在です」
「じゃあ、二十四日はどおですか?」
「大丈夫です」
男性弁護士も遅れて頷きながら「午後であれば大丈夫です」と答えた。
「じゃあ、次回は十一月二十四日と指定します」
そして閉廷された。
京はもう一度、黒革の訟廷日誌を開く。予定が書き込まれていないほぼ真っ白の手帳。人には見せられない。出張なんて嘘だ。
抱えている事件といえば、この民事事件と法テラスから紹介があった個人の破産事件と任意整理ぐらいだった。事務所の方針で、社会活動をすることを課されているので、手が空いていれば国選事件も受任する。
お金を稼ぐのに忙しいパートナーの代りに暇なアソシエイトが奉仕活動に励むことになっている。それでも気概のある同僚のアソシエイトは独自の人脈で、まるまる自分の収入になる個人事件をとってきて、バリバリ稼いでいるし、能力があると見込まれた有望株の新人は、事務所受任の事件で複数のパートナー弁護士がチームを組むそのメンバーの一員に指名され、かり出されている。
企業で使い者にならない社員が「追い出し部屋」に異動させられるみたいに自分もそんなわかりやすい方法でリストラの烙印を押してもらえた方がむしろ気分的にすっきりする。 事務所内で佐藤と京の関係もちらほら噂になり始めていて、そろそろ潮時なのかもしれなかった。
事務所へ戻る足取りが重い。中之島の裁判所と北浜の事務所の往復時、京は必ずライオン橋を渡る。大阪は水都といわれるだけあって、橋の数も多い。北浜と中之島をつなぐ土佐堀川に架かる橋だけでも淀屋橋、水晶橋、栴檀木橋、難波橋がある。難波橋は、橋の四隈の親柱の上に阿と吽それぞれ二体の石造のライオン像が配されていることから『ライオン橋』の愛称で親しまれている。
四頭のライオンは『北浜の今太閤』と呼ばれた伝説の相場師・松井伊助が寄贈したといわれている。裁判所の帰り、事務所にまっすぐ帰りたくない時は橋の中央あたりにバラ園に通じる階段があり、途中、寄り道する。対岸から事務所のある証券取引所のビルが見える。
三年経った今も事務所に何一つ貢献できず肩身が狭い。それでもライオンに背中を押され、なんとか自分を保っていられるのだった。
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ライオン橋(第3話/4)
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