3年目 BB講師 (ブラック&部活)

 進学校での勤務に見切りをつけられ、いなかの普通高校に勤務を命じられた。「のどかなところで生徒もいい子が多いよー」とのことで期待を持って顔合わせの会に向かいました。わたしの自治体は、年度末約半日に、転任者が配属先に行き、顔合わせ、分掌会、教科会、学年会をやるというのが伝統のようです。そんなに一気にやっても、意味ないのでは・・・と思いました。前日は送別会で、二日酔いで転任先に向かいました。そして、配属や分掌、部活動について書かれた紙が配られました。
 運動部正顧問、分掌は総務、学年は高2でした。そしてこの後驚愕しました。教科会でのことです。

 主任「1人当たりの持ち時間数は22~24です」
転任者「え?」

 この学校は、その当時「魅力化」という名の生き残り策として習熟度別授業を掲げていました。それもモザイク3展開。1つの時間に同じ教科の教員が3人必要になるわけです。時間数が張るのも当然です。
 さらに、これは教科の時間で、LHRや総合はさらに追加。高校で1人当たり24~26時間というのは凄まじいですが、経験のなさというのは強いもので、そんなものかと思っていました。余談ですが、この時間数を聞いたことからストレスを感じ、GW前に休職される方もいました。

 部活は、強豪で有名で、あらゆる上位大会に進むのは確実とのことでした。技術指導は、コーチを雇っているのでその方に任せ、顧問の主な仕事は大会参加の事務仕事や引率の責任だということでした。そして、期間限定の難点がありました。管理職が監視・処分大好き系でした。放課後に部活に顔を出さないことを説諭するというのは日常茶飯事で、練習中にケガなんてあれば、生徒の様子よりも顧問がいたかどうかを追及されるんです。こうして部活の正顧問とは、「休みが取れない」を意味していました。この年の平均残業時間は200時間を超えなかった月が4月と3月のみでした。
 例年この部活の顧問はなり手がおらず、常勤講師のポジションというのがその学校の慣例でした。納得です。当時は手当も安かったので土日で1日2400円でした。少ない!!

 はて、授業の方ですが、そもそものレベルが高くない(低い)学校です。3展開の需要自体がそもそもなく空回り感がすごかった。管理職の?自治体の?理想のもとに始まった企画も、生徒の希望もなければ、持続可能性も低いので、結果は失敗することがわかりきっていました。1学期の時点でこれなんであとの学期どうすんのかなと思っていました。1人当たりの授業時数が多い、部活も忙しいとなると授業準備の時間とかほぼありませんでした。前任校は、県下有数の進学校で生徒数も多く、教員数も多い。しかし、ここは、いなかの学校。生徒数も教員数も少ない。そもそも強いチームワークがないと、乗り切れないのに。身の丈に合わない計画をどう実践するのか。その部分を欠いたままの見切り発車で多くの人が不幸になりました。たとえば、急なお休みが増える→モザイクなので教員がいない→自習。自習が増える→試験範囲は?。でも、モザイクなんでみんな自分の担当で手一杯。まわらない学校でした。
 そして、わたしは管理職面談でやらかしてしまいました。

 校長「学校の問題点は?」
わたし「習熟度別授業です。このせいでみんな疲弊しています。急なお休み
    にも対応できていません。そもそも試験も3授業も3展開ですが、  
   レベルが適切かどうかも検証されていません。具体的な成果や好まし
   い効果が感じられない一方で負の問題しかないのに続ける妥当性はな
   いと思います。」
 

校長・教頭「・・・・・・」

 思っていたことをそのまま言いました。学校を良くしたい、正直は金という気持ちだったのですが。結果は最悪。私は管理職の地雷を踏んでいました。おそらくこのときのやりとりがきっかけで、わたしはブラックリスト?に載ってしまいました。この次の仕事にも関連するほど目をつけられてしまいました。余談ですが、この学校は数年後、生徒数も(さらに)減り、教員定数も減りました。今や存続の危機にあります。管理職が舵取りを誤ると、大打撃を喰らうというのを目の当たりにしました。

 さてその年の採用試験。初めて高校で受験しました。前述のとおり、休みがないんです。勉強もできず、結果はさんざん。しかし収穫は、1次試験の面接評価がAだったこと。

 部活が忙しくて上位大会はすべて参加。9月~12月は休みが全くありませんでした。1月にインフルエンザにかかり強制的に欠勤できたときがその年度の印象に残っています。

 時は流れ、3月に。毎年3月上旬の夜に教育委員会から電話がかかってきます。講師たちは、昨日電話があったとか次は・・・と話しているなか、私には連絡がない。焦りのなか、懇意にしていたベテランの先生から声をかけられました。

 ベテラン先生「あんた、何かやらかした?」
    わたし「どういうことですか?」
 ベテラン先生「さっき、企画会であんた辞職となっていたけど、まだ教員
        続けるんだろ」
    わたし「え・・・」

 そのとき、管理職面談のやりとりを思い出しました。ベテラン先生によると、勤務先の校長は人望はないが権力者ではあるとのこと。講師に仕事やらないくらいはできるかなということでした。私は、またモラトリアムかと仕事を諦めかかっていました。そこから数日後。

 教育委員会「あの常勤講師の仕事があるんですが」
   わたし「やります」
 教育委員会「でも7月までなんです」

 病休代替で、1年間でないことから多くの人に敬遠されたのでしょう。ほんとになり手がいなくて、苦肉の策でわたしに連絡がありました。私も7月までかと思いましたが、当時新車を買ったばかりで、お金が必要だったので、その依頼を受けることにしました。そのとき教育委員会の方の安堵の色のうかがえる声色は忘れられません。勤務先の管理職に伝えてもよいし伝えなくても構いませんとのことだったので、あえて校長教頭には伝えませんでした。ただ数日後、次の勤務先から分掌や部活の希望を聞くためのFAXが入り、講師の口があったことがバレてしまいました。教頭から大目玉を喰らいましたが、なんとも思いませんでした。
 
 こうして教員3年目は、部活とブラック管理職を経験した1年でした。管理職からは蛇蝎のごとく嫌われましたが、部活動は生徒からも保護者からも感謝されました。そこだけが救いでした。ただ、社会人として、管理職とのやりとりも気をつけようということを身をもって経験しました。
 7月までの勤務に不安を感じながら、次の勤務校に向かいました。
(結果、次の勤務先は1年間働けました。また教員として、そして人間として大きく成長するきっかけをいただくことができました。まさにセレンディピティとはこのことでした。)






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